オペラ《カヴァレリア・ルスティカーナ》とは
(8月 夏の演奏会)
《カヴァレリア・ルスティカーナ》は、1888年にイタリアの音楽出版社ソンツォーニョ社が、1幕物のオペラを懸賞募集した際に第1位に入選した作品で、1890年5月17日にローマのコンスタンツィ劇場で初演されました。この時作曲者ピエトロ・マスカーニは弱冠26歳、これを機に世界的なオペラ作曲家として期待される存在となります。ただこの後、《友人フリッツ》や《グリエルモ・ラトクリッフ》、日本を舞台にした《イリス》など、マスカーニは数々のオペラを発表しますが、《カヴァレリア・ルスティカーナ》を凌ぐ作品はとうとう生み出すことはできませんでした。しかし《カヴァレリア・ルスティカーナ》は世界各地で絶え間なく上演され続けている人気作で、同時代の1幕オペラであるレオンカヴァッロの《道化師》としばしばセットで上演されています。
「カヴァレリア・ルスティカーナ」を日本語に訳せば「田舎の騎士道」という意味。舞台は19世紀末のシチリア島。実話に基づいたジョヴァンニ・ヴェルガの同名の小説を原作としています。当時戯曲としても上演されて評判を呼んでいたこの作品に目を付けたマスカーニは、ヴェリズモ(現実主義)・オペラとしてこのオペラを世に送り出したのでした。〔註:「ヴェリズモ・オペラ」は、絵空事を描いたワーグナーの楽劇への反動として起こったもので、日常生活や現実的な事件を取り扱ったものです。〕
登場人物はサントゥッツァ(ソプラノ。ただし実際にはメゾ・ソプラノのレパートリーとして定着/トゥリッドゥを思う村娘)、トゥリッドゥ(テノール/村の伊達男)、ローラ(メゾ・ソプラノ/トゥリッドゥの昔の恋人)、アルフィオ(バリトン/ローラの夫。馬車屋)、ルチア(アルト/トゥリッドゥの母親)の5人および村人たち(合唱)。全1幕ですが、場面転換に非常に効果的な〈間奏曲〉が挿入されています。
〔あらすじ〕
静かに始まった〈前奏曲〉がいったん盛り上がった後、舞台裏から昔の恋人ローラへの思いを歌うトゥリッドゥの〈シチリアーナ〉がハープの伴奏にのって聴こえてきます。
前奏曲が終わると教会の鐘が鳴り、〈オレンジの花の香り〉と歌いながら村人たちが教会前の広場に集まって来ます。今日は復活祭、村はお祭りです。
村の伊達男トゥリッドゥはサントゥッツァという恋人がありながら、昔の恋人で今は馬車屋アルフィオの妻となったローラと不倫関係にありました。これに感づいてしまったサントゥッツァは、トゥリッドゥの母親ルチアに、事実を知りながら「彼はどこへ行ったのか」と尋ね、彼が今日もローラの家のそばで目撃されたことに不満を漏らします。そこへ馬車屋のアルフィオが取り巻きを引き連れ、妻のローラの自慢をしながら〈駒は勇んで〉を歌って陽気に登場、ルチアに「トゥリッドゥが今朝俺の家のそばでうろついていたぞ」と告げてサントゥッツァの訴えに裏づけを与えます。
やがて教会からオルガンが聞こえてきて、人々が〈アレルーヤ〉を合唱、サントゥッツァも深く祈りを捧げます。人々が教会に入っていくとサントゥッツァはルチアに向かってアリア〈ママも知る通り〉を歌い、トゥリッドゥの不倫を泣いて訴えるのでした。しかしどうすることもできないルチアは教会に入っていってしまいます。
そこにトゥリッドゥが登場、不倫を責めるサントゥッツァと言い合いになり、さらにはローラも通りかかって事態は泥沼の様相を見せます。ローラが捨て台詞を残して教会に入っていくと、トゥリッドゥには「行かないで」と懇願するサントゥッツァ。しかしローラを追うようにトゥリッドゥも教会に入ってしまいます。
サントゥッツァが悲しみにくれていると、今度はアルフィオが現れます。興奮を抑えられないサントゥッツァは「あなたの奥さんが私の恋人を奪った」と告げ口し、アルフィオと二重唱〈おお、神様があなたを寄こしてくださったんだわ〉を歌いますが、激怒して復讐を誓うアルフィオの様子に、彼女は告げ口したことを後悔するのでした。
静かで美しい〈間奏曲〉の後、再び鐘が鳴り、村人たちが教会から出てきます。トゥリッドゥ、ローラ、そしてその友人たちも出てきて居酒屋で酒を飲み、〈乾杯の歌〉を歌います。
しかしそこにアルフィオが登場、トゥリッドゥはアルフィオにも杯を勧めますが彼はそれを拒み、あたりに異様な雰囲気が漂います。すべてを察したトゥリッドゥは、シチリアの風習に従ってアルフィオの耳に噛み付いて決闘を申し込みます。「裏庭で待っているぞ」と言うアルフィオに「すぐに行く」と応じるトゥリッドゥ。死を覚悟したトゥリッドゥは酔ったふりをして母のもとへ行き、〈母さん、あの酒は強いね〉を歌ってそれとなく母に別れを告げます。そして「もしものことがあったらサントゥッツァを頼む」と母に懇願するのでした。
しばらくの間。やがて舞台裏から人々の悲鳴が聞こえ、「トゥリッドゥが殺された」と女がひとり駆け込んで来ます。あまりの出来事に驚いたルチアはサントゥッツァにすがって気を失って倒れ、サントゥッツァもその上に崩折れて悲劇は幕を閉じます。


ベートーヴェンの《ウェリントンの勝利》とは
(8月 夏の演奏会)
「戦争交響曲」とも呼ばれるベートーヴェンの《ウェリントンの勝利、またはヴィットリアの戦い》は、19世紀初めのナポレオン戦争で、ウェリントン将軍率いるイギリス軍が、ナポレオンのフランス軍を1813年6月21日のヴィットリア会戦で撃破したのを記念して書かれた作品です。ご承知のようにベートーヴェンはフランス革命の立役者ナポレオンを最初は賛美していましたが、彼が皇帝になって野望を持つようになると失望し、ナポレオンに献呈するつもりで作曲した《英雄交響曲》の献呈を取り下げたことはよく知られています。ヴィットリアの戦いでナポレオンのフランス軍がウェリントンのイギリス軍に破れたことは当時のウィーンにもいちはやく伝えられ、ウィーンの人々に大きな歓喜をもたらしました。そしてベートーヴェンもこの戦いの勝利を描いたこの音楽を書いたわけです。この曲(作品91)は有名な交響曲第7番(作品92)とともにウィーンで初演され、圧倒的な成功を収めました。初演の総指揮はベートーヴェン自身、バンダの指揮はサリエリ、演奏にはマイヤベーアやシュポーア、ロンバーグ、ドラゴネッティが加わるなど、豪華な顔ぶれでした。
曲は前半の〈戦闘〉と、後半の〈勝利の交響曲〉の2つの部分から構成されています。本体のオーケストラとは別に、舞台後方下手にはイギリス軍、上手にはフランス軍のバンダが配置され、進軍を表現するトランペットとスネア・ドラム、大砲を表現するバス・ドラム、鉄砲の音を表現するラチェットにより両軍は構成されています(それぞれ最低1人ずつ、ベートーヴェンは「多ければ多いほどよい」と楽譜に記しています)。
まずはイギリス軍の登場で、最初にスネア・ドラムが進軍のリズムを刻んだ後、トランペットの進軍ラッパ、そしてイギリス軍の行進曲《ルール・ブリタニア》が演奏されます。同様にフランス軍がそれに応えると(行進曲は《マールボロ》)、戦闘場面が始まります。
戦闘的な音楽に合わせて、バス・ドラムが大砲の音、ラチェットが銃撃の音を出し、スネア・ドラムが進軍を煽ります。やがてフランス軍の砲撃が途絶えてイギリス軍のみが残ります。なおCDによっては、大砲や銃撃に実音を使っているものもあります(カラヤン盤など)。
イギリス軍の勝利が確定するとオーケストラ本体のみによる第2部〈勝利の交響曲〉となります。イギリス軍の勝利を表わした音楽で、交響曲第7番の終楽章と通じるリズミカルな音楽が演奏されたのち、イギリス国歌《ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン》が引用され、勝利の凱歌が高々と歌い上げられます。

ブラームスの《交響曲》とは
(第9回定期演奏会)
 有名な話ですが、ブラームスが交響曲第1番を完成させるまでには20年以上の年月を要しました。着想したのは1855年、22歳の時でしたが、完成したのはなんと1876年、ブラームスは43歳になっていました。それはベートーヴェンの偉大なる9曲の交響曲を前にして、萎縮してしまったことが原因のひとつと言われています。その間、幾度となく交響曲に挑戦しようとするのですが成就せず、ある曲はピアノ協奏曲第1番と形を変えてしまったり、また交響曲を作曲しきれずに、出来上がったのは6楽章構成のセレナード第1番だったり……。 しかしそうして出来上がった交響曲第1番は充実した出来栄えで、当時の指揮者ハンス・フォン・ビューローからはベートーヴェンの偉大な9曲を引き継ぐ作品として、「第10交響曲」と評されるほどでした。第4楽章の有名な主題は、ベートーヴェンの「第9」との類似が指摘されますが、これはブラームスの先人への敬意が自然と出てしまったのだと思います。 交響曲第1番を書き上げてからは、吹っ切れたのか、ブラームスは次々と交響曲を生み出します(といっても4曲ですが……)。4ヶ月で書き上げてしまった交響曲第2番から6年後の「第3番」も、1883年の夏から秋にかけて、数ヶ月で完成されました。第1交響曲に比べればこぢんまりとはしていますが、味わい深い、ブラームスらしいメロディに満ちています。そして1883年の12月に、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演され、好評を持って迎えられました。同時代の交響曲作曲家ブルックナーの交響曲が、ウィーン・フィルから初演をことごとく拒否されたこととは対照的でした。金管や打楽器を控えめに使用したブラームスの交響曲は、ブルックナー=ワーグナー派からは批判されましたが、保守的なオーケストラや聴衆からは暖かく迎えられたようです。今となってはどちらもすばらしい作品を残したと思いますが、金管バリバリのブルックナーの交響曲が市民権を得るまでには、当時はしばらく時間がかかったようです。

オペラ《ラ・ボエーム》の作曲家 ジャコモ・プッチーニとは
(区民でつくるオペラコンサート第6回公演)
ジャコモ・プッチーニは1858年にイタリアの中部の町ルッカに生まれ、1924年にベルギーのブリュッセルで没した、ヴェルディ(1813〜1901)以後最大のイタリアのオペラ作曲家です。19世紀末から20世紀にかけてのイタリア・オペラ界で大活躍し、代表作には《ボエーム》(1896年初演)、《トスカ》(1900年初演)、《蝶々夫人》(1904年初演)、《ジャンニ・スキッキ》(1918年初演)、《トゥーランドット》(未完成、アルファーノの手で完成されて1926年に初演)などがあります。きらびやかな響きと甘美なメロディに独特の味わいがあり、ひとたびその魅力に取り憑かれると病み付きになってしまう作曲家といえましょう。そのオーケストラ編成もヴェルディに比べて格段と大きくなっています。 プッチーニはルッカの大聖堂の楽長やオルガニストを代々輩出した音楽一家に生まれました。当然周囲からはその後を継ぐべき音楽家になるものと期待され、幼い頃からオルガンなどの音楽教育を施されますが、少年時代のプッチーニにはその道での才能が認められませんでした。それでも母親は息子の才能を信じ、5歳のときに父親が死去するなど一家の暮らしは決して楽ではなかったのですが、彼をルッカの音楽学校に入学させます。その甲斐あってプッチーニはやがて楽才を発揮するようになるのですが、そうした彼をオペラの道に引き込んだのは、19歳のときに観たヴェルディの《アイーダ》でした。ヴェルディのこの大作に感動したプッチーニは、自分もオペラ作曲家となるべく決心を固めるのです。 《ボエーム La Bohème》はプッチーニのオペラ第4作。フランスの作家アンリ・ミュルジェの小説『ボヘミアンたちの生活情景』(Scènes de La vie de Bohème)に基づいています。原作のミュルジェの小説は1830年頃のパリの貧しくても気ままに活動する芸術家たちを描いたもので、のちに舞台劇としても上演されました。 「ボエーム」とはもともとはフランス語でボヘミア(現在のチェコ付近)のこと。放浪者(ボヘミアン=ジプシー)という意味もあり、ここではこれが転じて、「ボヘミアン的な生活」「貧乏な芸術家などの放浪者のような自由奔放な生活」という意味で用いられています。イタリア語の辞典を引くと、フランス語からの外来語として"bohème"という項目があり、女性名詞(Laは定冠詞)とされていますので、プッチーニのオペラのタイトル"La Bohème"はイタリア語と考えてよいでしょう。 アンリ・ミュルジェの原作をオペラ化しようという考えは、プッチーニと同時代のイタリアのオペラ作曲家レオンカヴァッロ(1857-1919、代表作は《道化師》)も持っていました。そのためレオンカヴァッロからはプッチーニに対して「こちらが先だったのに真似をするな」といった抗議もありました(もっと複雑な経緯があるのですがここでは省略します)。しかしプッチーニは取り合わず、「じゃあそれぞれで作って、あとは聴衆に決めてもらいましょう」と言ったそうです。レオンカヴァッロの《ボエーム》はプッチーニの作品の翌年、1897年に初演されましたが、結果は歴史が示す通り。 プッチーニの《ボエーム》は1896年2月1日にトリノの王立劇場で、若き日のアルトゥーロ・トスカニーニの指揮によって初演されました。初演自体は成功とはいえなかったものの、やがて世界的な成功を勝ち取るのです。

《シェエラザード》の作曲家 リムスキー=コルサコフとは
(第8回定期演奏会)
ニコライ・リムスキー=コルサコフは1844年に生まれたロシアの作曲家です(1907年没)。チャイコフスキー(1840〜1893)より4歳年下なだけですから、当然チャイコフスキーと同じ時代のロシアで活躍しました。そしてもちろん、二人の間には面識がありました。 チャイコフスキーが単独の作曲家としての立場を貫いたのに対し、リムスキー=コルサコフは、バラキレフ、ボロディン、キュイ、ムソルグスキーとともにいわゆる「ロシア5人組」を結成して、ロシア国民楽派(ロシアの土臭い音楽を追求する楽派)の確立と発展を目指しました。「5人組」と当時西欧派といわれたチャイコフスキーはことあるごとに比較されたので、お互いに意識しあっていたようです。チャイコフスキーは「5人組」の中では特にリムスキー=コルサコフをライヴァル視していたようで、《くるみ割り人形》の〈こんぺい糖の踊り〉でチャイコフスキーが使用した、当時の新しい楽器チェレスタを初めて楽器屋で知ったとき、「私が先に使いたいので、リムスキー=コルサコフにはくれぐれも内密にしてほしい」と楽器屋に念を押した、というエピソードも残っています。ライヴァルといっても憎しみ合っていたという訳ではなく、チャイコフスキーが亡くなったときに、その追悼演奏会で指揮をしたのはほかならぬリムスキー=コルサコフであり、お互いに刺激を与え合う、なくてはならない存在だったと言えるかもしれません。 リムスキー=コルサコフの代表作は、なんといっても今回演奏する交響組曲《シェエラザード》でしょうが、同じようにヴァイオリン独奏を伴う《スペイン狂詩曲》や、序曲《ロシアの復活祭》、歌劇《サルタン皇帝の物語》がよく知られています。あまり知られてはいませんが3曲の交響曲も作曲しています。なかでもアラビア文学を題材にとった交響曲第2番《アンタール》は、《シェエラザード》と同工異曲といってもいい東洋のテイスト満点の作品なので、機会があったらぜひ聴いてみてください。曲名を見てもわかる通り、リムスキー=コルサコフは異国趣味を持っていた作曲家だったようです。 オーケストラの中でソロ楽器を多用するのもリムスキー=コルサコフの特徴のようで、《シェエラザード》でも、ヴァイオリン、チェロ、クラリネット、ファゴット、トロンボーンなどがソロで大活躍をします。ちなみにトロンボーンのソロを受け持つのは、なぜかセカンド・トロンボーンなのですが、これは初演当時にこの曲を演奏したオーケストラのセカンド・トロンボーン奏者と作曲者が仲良しだったからだそうです。ちょっと人間味のある話ですね。
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