第一章 誕生

女の子の名前と赤やピンクの布団や着物を用意され、私はこの世に生を受けた。

トロンボーン奏者の父とショーダンサーの母が、生まれる直前まで“女の子”を、と強く

願ったらしいが、それを見事に裏切り、わたしは“ちんちん”を付けて仮死状態で生まれ

てきたのである。産婆さんの機転で足を持って振り回され尻を数発叩かれ数分後にようや

く産声をあげ皆を安心させたと言う。

1954年11月5日、大阪府豊中市服部、西口家長男、母の実家での誕生であった。

前もって付けられていた名前は“美之(みゆき)”で、父の名前から一文字“美”を拝借

している。これを“よしゆき”と読ませ漢字は変更しなかったところをみると、両親とも

この字が気に入っていたのであろう。

生まれて数ヶ月の頃の写真が多く残っているが、時代はまだ白黒写真の頃である。今から

思えばカラーでは無くて良かったように思う。何せ着ている物、持ち物、布団などが全て

赤やピンクで統一されていたはずであるから.....。

その頃の父は、大阪ミナミのキャバレー“メトロ・ポリタン”で“大阪キューバン・ボー

イズ”と言うフルバンドに在籍しトロンボーンを演奏し、ショーのアレンジを担当してい

た。話は前後するが、私の祖父もピアニストで戦前、戦後の関西のミュージック・シーン

ではかなりの活躍、貢献をしたらしい。私が2才の時に他界しているので祖父のことは全

く記憶には無いが、残った写真を見るかぎりでは今の時代にいたとしても“カッコイイ”

ミュージシャンである。.....その人の長男である父はかなりの羨望と期待の目で周囲から

は見られていたらしい。

そしてその頃の母は、若手ナンバーワンのダンサーであったらしい。私を出産したときは

まだ19才である。母の自慢はその頃来日していた“シャーリー・マクレーン”と、舞台

で共演しアメリカ公演にスカウトされた、と言う事である。ちょうど時期的に私の出産と

アメリカ行きが重なり、泣く泣く辞退したと言うのであるが、写真や母と同期の方達の

証言を見聞きするかぎり、作り話では無さそうである。.....で、私を産んだ後すぐに現役

復帰したらしい。

と言うわけで、私は父方の祖母にほとんど育てられた“おばあちゃんっ子”である。