瀬々敬久監督作品(2)


高級ソープテクニック4 悶絶秘戯

1994年、製作:国映、配給:新東宝映画
監督:瀬々敬久、助監督:今岡信治、脚本:羅漢三郎 (瀬々敬久、井土紀州、青山真治)
出演:伊藤猛、栗原早記、下元史朗、葉月螢、滝優子、夏みかん、小林節彦、サトウトシキ、上野俊哉

古紙回収業者の男(伊藤猛)は、たまたま訪れた団地の女(栗原早紀)を仲間(下元史朗)と共にレイプしてしまう。その後逮捕されて出所した彼はソープ嬢になっている女と再会するが、彼女は人違いだと言って認めない。主人公はしばらくして結婚し、徐々に落ち着いた生活が始まった矢先、妻(葉月螢)が強盗事件に巻き込まれて殺されてしまう。彼はふたたびソープランドで女と会うが、彼女は彼のことを覚えているそぶりさえ見せなかった。その後、主人公は、彼女が自分と一緒にレイプしたかつての仲間と共に住んでいることを知る。

瀬々敬久が関わっている作品の主人公として伊藤猛が登場するとき、その時点でもう物語の大部分が決まってるような気がする。この映画で彼が演じているのは、身も心も汚れきったオレ…という過剰なまでの意識に押しつぶされそうな(ある意味で)生真面目すぎる男であり、汚れた自分を清めてくれる存在として、過去自分が犯したソープ嬢にすがりつく男である(なんかこういう話ピンクじゃなくても他にもあったなぁ)。そしていつものように、あまりにいろいろなものを心の中で抱え込んで呆然と彷徨している男であり、本当は明るい方角を切望しながらもそちらへ続く道に決してたどり着けない男である。(少女マンガ的解釈だと「本当はピュアな魂をもった彼」となるのだろうけど、「全然ピュアなんかじゃないです」というのがゼゼ作品である。笑)この物語の最後で主人公は鳥のように飛び、全てから解放され、そして落ちる……らしいのだけど、私はそうは解釈できなかったんだよな。この主人公にはそういう結末すら許されないのではないか。あの結末は彼の描いた夢想にすぎないのではないか。「連続ONANIE 乱れっぱなし」(瀬々脚本)「雷魚」「汚れた女」の主人公たちのように、無様に生き延びるしかないんじゃないのかしら。それが瀬々作品の持ち味だと思うんだけど。

伊藤猛いいなー。ソープ嬢に洗ってもらいながら涙を流すシーンなんか、この人ならではの誠実さを感じます。上野俊哉とサトウトシキが妙な部分で友情出演。特典を観るまでわかりませんでした。というか絶対わからんでしょう、あれじゃあ。

DVDにはゼゼコレシリーズおなじみの美味しすぎる特典、瀬々、坂本礼、川瀬陽太、下元史朗のヨッパライ談義あり(酔ってません)。下元史朗に遠慮気味な若造二人(坂本&川瀬。タメ口同士だ)がご愛嬌。瀬々監督が伊藤猛をピンクに引っ張り込んだ(笑)経緯を話してくれたり、笑いどころもも多くて相変わらず贅沢な特典です。さすがに下元史朗がカッコいい。山路和弘の話なんかしてるのがとても面白かった。(2003.7.29.)


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本番レズ 恥ずかしい体位

1994年、製作:国映、配給:新東宝映画
監督・脚本:瀬々敬久、助監督:今岡信治
出演:智恵子、深谷真琴、辻斬かりん、山口博之、小林節彦、藤島紺

優等生(というよりは夢見がちなオタク系)の女子高校生ヒトミ(智恵子)が、同じクラスのちょっと不良めいたエリコ(深谷真琴)に惹かれ、レズビアン関係になる。ヒトミはエリコに二人は「前世で恋人同士だった」と語り続け、エリコは段々とそういう彼女を冷たくあしらうようになる。エリコにすがりつこうとするヒトミに対して、ついにエリコは彼女の語る「前世」の物語を打ち砕く。

スピリチュアル同人系少女(瀬々曰く「ムー姉ちゃん」)とばりばり現実派のヤンキー少女の、戯れのような恋の顛末…なのだろうか。しかし何とも言えない不気味さというか歯がゆさというかキモチの悪さが最初から最後までつきまとっている。
たとえば、好きになった女の子の胸のホクロを「オリオンの戦士のしるし」と言った主人公が、自分の胸に焼けたフォークの刃先を押し付けて彼女と同じホクロをつくる、という部分など、ものすごくグロテスクさを感じてしまった。二人の女の子がかわいい女優であれば、乙女チックな行動と見えたかもしれないけど、(素人を使ったという)このキャスト陣のあまりの生々しさに、キモチの悪さが先に立ってしまったというか。
もしかしたら、このヒトミという人物のドリーマーっぷりについて、(自分の中で)こういう少女期にちょっぴり思い当たる部分があったからイヤな感じがしたのかもしれない。私はここまでフィクションに依存してはいなかったと思う(思いたい)けども。同時に、そのヒトミの夢想の世界を、それを逆手にとってぶち壊すエリコのそのやり口も、女の子独特の残酷さと賢さを感じてイヤな感じだった。これも何となく自分に思い当たるふしがある(…)。
男性が見たらどう思うかわからないけど(川瀬陽太は「リリカル」と表現したのでおそらく私と全く違う捉え方をしている)、これ、他の女性(ややオタク系)が観たらどう感じるのかなぁ。なんとなく他の方の感想が聞いてみたい気がする。

ちなみにこの映画でも主人公は生き延びる。今まで私が見てきたほかの瀬々作品と同じように。

DVDには瀬々、坂本礼(出演)、川瀬陽太のトークが収録されている。映画のネタ元は別冊宝島だったとか(笑)、相変わらず貴重な話題続出。
なかでも、川瀬陽太が彼の知っていた同人系女子について語り始めたことをきっかけに、フィクションの中で戯れる少女らがそのフィクション自体をアイデンティティとして生きていこうとしている危うさ……について話が及ぶ部分が特に面白かった。川瀬が同人女子に対して感じたことを喋ってる部分も大変興味深いし、マンガやアニメの同人誌活動を経験したことのある人(しかも女性)には、とくにこのトーク部分は印象に残ると思います。(2003.8.3.)


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終わらないセックス

原題「夜、鳴く蝉」
1995年、製作:国映、配給:新東宝映画
監督:瀬々敬久、助監督:田尻裕司、脚本:瀬々敬久、井土紀州
出演:工藤翔子、川瀬陽太、伊藤猛、小林節彦、泉由紀子

ヒロイン(工藤翔子)は、旅行代理店に勤めるOLである。昼間は真面目に仕事をしているが、夜はテレクラで男を漁り、また、会社の上司(伊藤猛)との不倫関係も続けていた。彼女の職場にやってくる清掃会社の若い男(川瀬陽太)は、密かに彼女に好意を寄せており、その行動をストーカーまがいに追いかけている。たびたびすれ違った二人は、彼女がテレクラで知り合った男(小林節彦)に脅迫されたことをきっかけとして心を通わせ、ようやく結ばれるが、その時、主人公は彼が自分をつけまわしていた男だということを知ってしまう。

この映画、「結末から物語が始まる」。真夏、ベッドの上に横たわって動かない女の裸身、その上を這っている小さな蝉。何故彼女がそのような姿で横たわることになったのか、が、その後、順を追って、時には遡り交錯しながら語られてゆく。油断しているとどこがどうなのか一瞬、わからなくなる(私は2度見て確認した。笑)。
そんな具合で現在と過去が交錯しながら、最後に、冒頭で描かれた結末が繰り返される。ただしこれで物語が終わったかのように見えて、もう一度、同じ物語が(今度は違う展開かもしれないし、全く同じかもしれない)始まるところで映画は幕を閉じる。そういえばこれは「アナーキー・イン・じゃぱんすけ」に似た円環形式だなぁ。同じ物語の中で彷徨い続ける男女というファンタジーの領域にまで達しながら、見終わった後に心に残るのは、蝉にたとえられた、曖昧な焦燥感に駆られて自暴自棄になってゆく登場人物たちの不器用さなのだった。

もともと瀬々作品って説明が多いほうではないけど、この作品も極端にセリフが削られ、同時に、場と場、行動と行動をつなぐ「何故?」という理由であり動機の部分が全く描かれていない。映画の全編に漂う生々しさであり刹那的な雰囲気であり寂しさのようなものは、登場人物たちの、理由のない(あるだろうけれども描かれない)衝動的な行動の連続から感じさせられるものなのかもしれない(私はこういう作風はとても好きだ。瀬々監督の、というよりも、脚本の井土紀州の持ち味かもしれないけど)。のちに登場する「雷魚」と何となく似ている。蝉という生き物で人間の有様を印象づけているところも、そういえば似てるんだよな。

DVDの特典として、お馴染み瀬々&坂本礼&川瀬陽太の酔っ払い・・・ではなくマジメな(笑)トーク付き。このシリーズの特典すべて見て思ったのだけど、川瀬陽太のコメントがいつも大変面白い。監督にいじられる役者という立場から瀬々作品について彼なりの解釈や感想、疑問を述べるのだけども、その視点がちょうど「観客代表」のように率直でわかりやすい。「あっそうそう!私もそう思う!」てな気分になってしまった。万一「ワケわからん」と思った人は、彼のコメントを注意深く聞けばよろしいのではないかしら(笑)。

ヒロインの工藤翔子、ちょっとキツいはすっぱな感じがして今まであまり好きになれなかったのですがこの映画ではとても良いです。この人、絡みの時の表情がそれ以外の時の表情からガラリと変わってエロティックだなあなんて思いました。川瀬陽太は出演2作目だそうで、「ヤング。」(←本人のトークより)それもまた大変よろし。(2003.8.22.)


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肌の隙間

2004年、製作・配給:国映、新東宝、製作:Vシアター
監督:瀬々敬久、脚本:佐藤有記、撮影:斉藤幸一
出演:不二子、小谷健仁、伊藤洋三郎、飯島大介、吉村実子

片田舎の一本道を真っ赤な原チャリがヨロヨロと走ってくる。赤いコーデュロイの上着を羽織った女(不二子)が、痩せて生気のない少年(小谷健仁)を連れて、当てもなく逃げているのである。二人は少年の母であり、女の姉である女性を殺していたのだった。女は母親(吉村実子)のもとに少年を連れて転がり込むが、母からは何故殺した、お前が死ねばよかった、と激しく責められる。救いを見つけられずに二人は再び彷徨い出て、ひと気のない山荘にたどり着き、そこでしばらくの間二人だけのときを過ごす。

冒頭からぞっとするほど美しい。緑ざわめく草原の中に倒れ込む女、その真っ赤な柔らかいコーデュロイの上着、真っ黒で美しい、長い髪の毛。ただならぬ緊張感に満ちていて背筋が伸びる。来たぞ来たぞ! とにかく映像は美しい。さりげなく配置される小道具も美しく、かつ、大変意味ありげで、深読みをしたい楽しみを観る側に与えてくれる。ひとときの安らぎの中で二人が貪り食うトマトの真っ赤な色。少年がむやみに叩きつぶす生きた魚から飛び散る腸と、みっしりと詰まった卵のグロテスクさ。主人公たちを演じる役者もみな(ときにやりすぎで辟易する部分もあるけども)熱演。とくにヒロインを演じる不二子という女優は、エキセントリックさと童女のようなあどけなさが同居していて大変魅力的。
ところが、物語自体には映像ほどのインパクトがない。映画的表現として敢えて言うならば「白痴」の女性と彼女の甥にあたる少年との、恋人同士とも母子ともつかぬ関係と、彼らが望んでも決してたどり着けない、誰もが幸せに暮らせるはずの「がいこく」への渇望…と、文章にしてしまうと驚くほどに平凡なカァル・ブッセ的テーマが描かれている(ような気がする。私の理解が間違っていなければ)。叩きつぶされる魚や水に浮かぶトマト、現実から遠く離れたふたりだけの世界に漂っている少年が食べ物を探して忍び込んだ民家で感じさせられる現実感、そこに遠くから帰ってくるその家の少女…と、もっと何か世界が広がりそうな匂いはそこかしこに漂っているのに、何一つ活かされていない。わざとなのかもしれないけども、なんだかそれはあんまりじゃありませんか。
山をさすらい、川べりをさすらい、街をさすらい、当然の如くどこにも何も見つけられない彼らが朝方の銀座の街で声にならない絶叫をあげながら、助けを求めることもできずに掴み合い、 もがきあうラストシーンでの有りようは、それまでの流れからして当然の結末だと思われるし、残念ながら哀しみを誘いもしなければ心の痛みを伴いもしない。全く心が動かされなかったのだった。

…というのが私の映画を観た直後の感想でした。世界(銀座)の中心で愛を叫ぶゼゼバージョン。←嘘です。
基本的には今でもあまり変わっていませんが、日々色々なことをしながらつらつらと考えてみると、たとえば、この主人公の二人は、あの「雷魚」で映画の外にさまよい出た男女が姿を変えて映画の中に戻ってきたのだろうか、などとも思ってしまったのです。どこでもない世界にさまよい出た二人が、結局どこにも安住できずに戻ってきてしまう話。そう考えてみるとチラッと面白い気もするのだけども、行きどころがなくて呆然としている男女というのは瀬々監督が今までにもよく描いてきた題材なので、それならさらに面白くできたんじゃないかなぁ…という感想をも抱いてしまいました。そもそも主人公たちがどうしてああいう造型なのかわかりません。いくら演じる人々は熱演していたとしても、結局は頭の中で作られただけの、現実感の伴わないキャラクターのような印象があったのです。
少し長い映画で70分くらいあるのですが、実際は90分くらいに感じたし、後半では物語が大きく動く可能性もないのが段々と読めてくるために、役者の熱演だけにつきあっている感じでちょっと疲れてしまいました。残念。
この作品は間違いなくそのうちユーロスペースあたりで公開されるでしょう。映画館に貼られていたポスターも、一般の映画館に貼り出されることを前提としたデザインに見えました。しかしこの作品、一般映画としてはどうとらえられるかなぁ。今までさんざん描かれてきた世界でありテーマだろうから、ちょっと今さらって感じになっちゃわないかなぁ。なんて思ったりしました。

ヒロインの母親(少年の祖母)役で吉村実子が出演。とにかくびっくりです。
瀬々監督の映画は好きなので(そのため激しく期待して観に行ったのですが)、この作品もどーにかして好きになりたいのだけど…でもちょっと無理かなぁ。ただ映像は本当にきれい。うん。それは確かです。(2004.12.11、新宿国際名画座)


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