瀬々敬久監督作品(1)


黒い下着の女 雷魚

原題「雷魚」
1997、製作:国映=新東宝、配給:国映=新東宝映画
監督:瀬々敬久、脚本:井土紀州、瀬々敬久
原案:瀬々敬久
出演:佐倉萌、伊藤猛、鈴木卓爾、のぎすみこ、穂村柳明、佐野和宏、岡田智弘、吉行由美

描かれるのは二つの衝動的な殺人(正確には四つの密やかな殺人もそれに加わる)である。
体調を崩して入院していた女(佐倉萌)がいる。彼女の夫は見舞いにも来ない。一方、妻が出産のために入院している男(鈴木卓爾)がいる。男は妻の留守をいいことに気楽に遊び歩き、その時に昔の恋人と会おうとして病院を抜け出していた女とテレクラで知り合う。二人はホテルにゆき、バスルームで突然包丁を取り出した女に、男はめった刺しにされ殺される。女は警察で事情を聞かれるが、二人が一緒にいたところを目撃していたガソリンスタンドの係員(伊藤猛)が嘘の証言をしたために解放される。係員はその後女と逢う。「人を殺すってどんな気持ちだ」「昔、同じ職場にいた女の子と付き合って、二度中絶させた。離婚に応じなかったら子供を焼き殺された」。女が言う。「私も昔好きな人の子供を堕ろしたことがある」二人はホテルにゆき、女が男を殺した時とそっくりな部屋で抱き合う。終わった後、係員はバスルームで首を吊りかけている女を見つける。「おかあさん」と呟く彼女の声を聞きながら、彼は女を絞殺する。

瀬々監督の作品は初めて観ましたが大変面白かった。というか衝撃でした。
どんよりとした水面が続く川べりの町で起こった二つの殺人。副業として川で魚を捕る係員(伊藤猛)の様子から始まり、比較的室外のシーンや晴れた空のシーンが多いし映像もとても綺麗なのに、何故か息が詰まるような閉塞感に圧倒される映画。時がゆっくりとしか移らない田舎町(だと思います)の、よく言えばのどかな、悪く言えば沈滞したムードは私にも思い当たるところがありました。そして描かれる二つの殺人の生々しさ!
しかもこの映画、主人公に三人出てくるのですが、誰もが自分の文脈でしか動かないので、微妙に交わっても最後までお互いを理解しない(と私は思う)。閉塞感ややりきれなさはここからも来ているのではないかという気がしました。タイトルに使われている「雷魚」は、係員が獲ってくる魚の一種で「はらわたに寄生虫がいるので店がひきとってくれない」とのこと。これはたぶん、腹にぐじゃぐじゃとしたものを溜め続けている人間のことを言っているのではないかと思います(←少々分かり易すぎるような気がするので、もっと深い意味があるのかもしれないけど)。
男性諸兄は、物言いたげなようで虚無的な佐倉萌嬢に心揺り動かされるかもしれませんが、私はやっぱり伊藤猛氏。今回の映画ではかすかに訛りのあるセリフ使いで、訥々としたその喋り方も声もとても味があります(私の中では「喋り」「声」はポイント高いのかも・・・)。妻以外の女に二回も中絶させたというセリフがあり、私から言わせりゃーそんな男はどうなっても当然(といっても勿論子供を殺されるのはひどいと思うが)なのですが、この伊藤猛氏がそのセリフを吐くと奇妙な誠実さと悲劇性が伴って聞こえてくるのでした。
しかし私が映画の中で一番理解できるような気がするのは、やはり佐倉嬢の演じるヒロインでした。女だからというイージーな見方は適切でないと思うけど、それでもなお。 (2003.1.6.)


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汚れた女(けがれたマリア)

ビデオタイトル「汚れた女 背徳の日々」
1998年、製作:国映、配給:新東宝映画=国映
監督:瀬々敬久、脚本:井土紀州、瀬々敬久、音楽:安川午朗
出演:吉野晶、諏訪太朗、工藤翔子、佐野和宏、川瀬陽太、伊藤猛

瀬々監督の「黒い下着の女 雷魚」では2つの実際にあった殺人事件(OLが不倫相手の家に火を点けて子供を焼死させた事件、男に捨てられた女子学生・・だったか・・・がテレクラで知り合った行きずりの男を刺殺した事件)がモチーフになっていたけど、この「汚れた女(けがれたマリア)」ではもっと分かり易く有名な事件がモチーフになっている。いや私がその事件が起きた福岡市出身だからより分かり易く感じただけなのかもしれないけど。いわゆる「美容師バラバラ殺人事件」。
主人公(吉野晶)は穏和な夫(伊藤猛)と幼い息子と共に暮らしながら美容院で働いているが、その美容院の若手美容師(川瀬陽太)と不倫関係にあり、密かに借りたマンションで彼と会っている。ある日彼女は、彼とさらに不倫していると邪推した同僚の女性美容師(工藤翔子)をそのマンションで刺殺、死体をバスルームで切断した後に捨てる。
数日後、タクシー運転手をしている女性美容師の夫(諏訪太朗)が、帰ってこない妻の行方を探して美容院にやってきた。美容院のオーナーと自分の妻が以前から不倫関係にあると知っていた彼はそこでトラブルを起こして怪我を負い、主人公に手当を受ける。そこで主人公は「奥さんは温泉に行きたいと言っていた」と場当たり的に嘘をつき、二人は彼の車で死んだ女を捜して雪の降り積もる山奥へと出発する。

描かれているのは(「雷魚」のように)あまり計画的ではない殺人事件であり、主人公によって妻を殺されたことを知った男が、怒りのような苛立たしさのような執着のような哀しみのような殺意のような(しかしそのどれでもないような)感情を主人公に募らせてゆき爆発させるまで。しかしそれでも何も変わらない。
二作を見た限りでは瀬々監督の映画(脚本)はセリフが少ない。セリフだけでなく全体的に説明が少なく、いきなりものすごい省略が行われたりする。たとえばこの映画では、短い導入部の後、いきなり何の前触れもなくマンションの床に女が死体になって転がっているシーンから物語が始まる。そういう状況に到った経緯はその後から、登場人物の数少ないセリフやごくありふれた仕草、そして何より彼らの間にしばしば訪れる沈黙によって説明される。
サトウ監督+小林政広脚本の映画にもよく沈黙や間合いが登場してそれがまたものすごく雄弁なのだけども、この瀬々監督が描く沈黙はもっと重苦しくいろんなものが詰め込まれていて、しかも何故か空っぽなのだった。登場人物がカメラにむかって物言いたげな、もしくは何も言えないような顔をして立っている時、彼らはみな空虚な顔をしている。あまりに沢山の葛藤が心の中にあってもはや整理がつかなくなったか、時には整理をつけることを最初から放棄してしまったような顔でこちらを見る。「雷魚」でいうところの「はらわたの寄生虫」の数があまりにも多すぎてもてあましているような顔。人間のごく普通な顔、無防備な表情って実はこういう「何も考えていない顔」じゃないかと思う。たぶん私自身も、日常的にこういう顔をしてるんだろうなあと思ったりした。イヤな感じですが。
「雷魚」ではそういう空虚な顔をした人間が三人交差した時、化学反応のように殺人が起き、生き残った一人はその顔のまま映画の外に姿を消す。だけどこの「汚れた女」では、二人が交差した時にやはり暴力が起きるけども、彼らはどこにも行かずに映画の中に踏みとどまる。「雷魚」より「汚れた女」のラストがやるせなさや情けなさ、そして真冬の雪の中なのにほのかな体温の暖かさが(私には)確実に感じられたのは、たぶんこのラストのせいではないかという気がした。
どーしようもなく、うまく結末のつけられないまま、人間はアホみたいに空っぽな顔をしてまた日常生活に戻って行く(刑務所に行くのかもしれんけど)。そんなもんだ。たぶん。 (2003.1.14.)


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アナーキー・インじゃぱんすけ 見られてイク女

ビデオタイトル「アナーキー・イン・じゃぱんすけ 連鎖誘拐」
1999年、製作:国映=新東宝映画、配給:新東宝映画
監督・脚本:瀬々敬久、音楽:安川午朗
出演:佐野和宏、佐々木ユメカ、佐藤幹雄、港雄一、諏訪太朗、下元史郎、川瀬陽太、田中要次、飯島大介

映画は物語の終わりから始まる。延々と続く田舎道に一本ぽつんと大きく生えた木の根本で、一人の男(佐野和宏)が、若い男(佐藤幹雄)を射殺する。何故こんなことになったのか。「人生には最高と最低が同時にやってくる。」男(佐野)のモノローグと共に物語は20年前に一気にさかのぼり最初から再生される。最後まで映画を観た時、私達は最初に描かれた「物語の終わり」が実は本当の終わりではなく、登場人物のうちの一人が「最低でもこうでありたかった」と願った終わりであったかもしれないことに気づかされる。

子供を産めなくなったミヅキ(佐々木ユメカ)は、たまたま通りがかったカップルの赤ちゃんをさらって自分の子供として育てながら風俗嬢をしている。カツトシ(佐野和宏)は40にもなって頭も薄くなってきたのにコンビニで店員をしながら、幼なじみの悪友二人(オムツプレイが好きな変態で新聞販促店店員=下元史郎、お尻好きでアル中の葬儀屋=諏訪太朗)と共に暇さえ有れば風俗通いをしながら(もしくは卓球をしながら)遊びほうけている。ミヅキと出会ったカツトシは恋に落ち、二人は共に暮らし始めたものの、ふとしたきっかけで彼女の息子が他人の子供だということを知ってしまう。家を飛び出したミヅキは田舎道を車で走らせるうち、木にぶつかり、交通事故を起こして死ぬ。カツトシは残された息子(佐藤幹雄)を育てるが、自分が他人の子供であり母ミヅキが実母ではなかったと知った彼は10代半ばから荒れ始める。挙げ句の果てに、彼はあろうことか自分の実の親が今養女にしている少女を誘拐して身代金を要求する。悪友二人はその誘拐に加担するがカツトシはたまらずに息子を止めようと走り出す。二人は対峙し、息子はカツトシに向かい、自分をだましてきたことを責めながら銃口を向ける。カツトシを殺した後、彼は自分の母親が交通事故を起こして死んだ現場の大樹−それが冒頭で登場した木でもある−のもとに座り込み、銃口を自分の頭に向けて引き金を引く。

いきなりカメラが疾走しはじめる冒頭のシーン、そこに被さる主人公の皮肉に満ちたナレーション、クールな音楽、とにかくこういうリズムが好きな人(私)にはたまらないムードで物語が始まる。薄幸だけどきっぷのいい風俗嬢、可愛く素直な彼女の息子、二人にかかわるバカでどうしようもない負け犬三人組。犯罪映画にうってつけのキャラクターが登場してワクワクさせるけど、この映画はその楽しげな彼らを素知らぬ顔して不幸にたたき込む。バカな負け犬は結局バカな負け犬であり、薄幸な女は薄幸なまま死に、可愛かった子供は主人公の世代以上に甘えくさった負け犬に成長する。物語はどんどん期待しなかった方に進み、気がつけば哀しい結末にたどり着いている。
それなのに全然悲劇的な印象がないのは、セピアカラーの写真を間に挟んで途中を大胆に省略するテンポの良さと、主演の佐野和宏の飄々とした声や姿(今回、佐藤慶に似てると思うのよね。誰も同意してくれなくていいけど。笑)が、ちょっと枯れた味わいさえ感じさせるからじゃないかしらん。
この映画では、「明日に向かって撃て!」や「ワイルド・バンチ」なんかで美しく描かれてきた、“死ぬまで遊び続けるバカ男たち”を鼻先で笑い飛ばす。だだっ広い道の真ん中をバカトリオが並んで行進してくるシーンは西部劇や犯罪映画を観てれば必ず心当たりがある、そして心躍る場面だ。ただし奴らの手段はママチャリ2台におんぼろなベスパ、そして向かってる先は風俗なんだけど(笑)
間抜けな奴らにそれぞれふさわしい結末を与えた後、映画は最後に切ないオチをつけてくれる。遊び続けた負け犬は姿を消して、そこに残るのはしっかりと自分の足で立とうとする(立とうとした)女たち。彼女らが佇むのは、物語が始まり終わったあの大きな木の根元であり、もしかしたらこれもまた、負け犬が最期の瞬間に見ている幻かもしれないと知りながらも、その瞬間私たちは儚い幸福感に満たされる。いなくなったバカな奴らを愛おしむ気分になり、もう一度、彼らの人生を彼女らとともに巻き戻してやりたくなる。

バカトリオについては言うまでもなく笑わかしてくれます。特に下元史郎がどーしようもなくクダラネー男で凄い。ミヅキを演じている佐々木ユメカ、「姐さん」と呼びたくなる頼もしさで良い(タイトルの「見られてイク女」は彼女のことなんだけど・・・ちょっと、とってつけ。)。彼女の息子を演じた佐藤幹雄は、一般映画に出てりゃあ一定の女性ファンがつきそうなジャニーズ系のやんちゃ顔美少年で眼福。ヒロインを子供の産めない体にした「腐れチ×ポ」の持ち主の元彼氏が川瀬陽太(怪演)。息子の起こした誘拐事件を捜査する刑事に田中要次&飯島大介。また刑事なのね・・・。(2003.1.17)


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禁断の扉 スカートの中の性衝動

1999年、製作:レジェンド・ピクチャーズ(V)
監督・脚本:瀬々敬久
出演:時任歩、佐藤幹雄、黒田史織、中谷彰宏

主人公は二人いる。携帯の出会い系サイトで女の子を物色し、ドライブした後に薬を飲ませて眠らせ、その隙に金を盗む青年、三男(佐藤幹雄)。職場の不倫相手(中谷彰宏)と別れてひとりぼっちだと感じている洋子(時任歩)。日曜日、予定がなく寂しさを紛らわせようと出会い系に手を出した洋子はそこで三男(かなり年下)と出会う。二人は海へ行き、何とはなしに時間を潰し、そして帰りの車の中、他の女にしたように、三男は洋子に薬を飲ませようとする。


瀬々敬久のビデオ監督作品(脚本も)。
「雷魚」「汚れた女」と同列の実録事件ものの味わいもあり(確かこういう事件があったはず)、同時に作劇術の上ではほんの一瞬、「アナーキー・イン・じゃぱんすけ」を思い出す部分もある(冒頭に物語の半ばのシーンをいきなりもってきたあと、最初から語り直される)。しかしながら実体は、一瞬出会ってしまい、そしてたぶん二度と出会うことのない二人の儚いラブストーリーなのだった。後輩格の田尻裕司の「OLの愛汁 ラブジュース」の少し後の映画なのだけど、別に田尻監督を意識してるわけではない・・・とは思う。
時任歩が良いのです。年下の男相手に居心地の悪さと照れくささを感じ、同時にとても嬉しくて仕方ないはしゃぎっぷり。物言いは少々乱暴なのに、佇まいや表情が哀しげな彼女なので、そういうヒロインが何とも可愛らしく思える。そして佐藤幹雄@ジャニーズ系も良いのです。不機嫌そうにしょっちゅう眉をひそめているのに(←他の映画でもよく見かける。笑)目が子犬のようにキラキラしていて、なんというか、女としては母性本能をくすぐられる部分あり、そして「たぶん本当は悪い子じゃない」と思いたくなる部分あり(笑)。佐藤幹雄について言えば、たぶんこの業界で珍しい可愛い若手だと思うので、こういう「(監督から見て)イマドキの若者」をよく演らされているような気がするものの、それがまたピッタリとよく合うのだった。
ビデオだから映像に全然奥行きがなく、それがとても残念な映画だった。海のシーンなどフィルムの方が良かったんじゃないかなぁ。しかしフィルム撮りだったら妙に暗い映画になったかもって気もする(笑)。

助演の中谷彰宏とは、メンタツの中谷彰宏。時任歩と軽く絡んでます。(2003.5.2.)


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