1987年、製作:メリエス、配給:にっかつ
監督:斉藤水丸 、助監督:北浦嗣巳 、脚本:荒井晴彦
出演:前川麻子、加藤善博、吉川遊土、河原さぶ、本多菊次朗
主人公(前川麻子)は17歳の女子高校生である。仲良しの友だちと三人でいつも過ごしていたが、ある日、彼女が「三人で死んじゃおうか」と戯れに言ったことが引き金なのか(そうでないのか)、そのうちの一人が、三人が遊ぶために待ち合わせていたビルの屋上から飛び降りて死ぬ。ちょうど待ち合わせに遅れてきた主人公の目の前に落ちてきた彼女は、笑っているように見えた。
ショックを受けた主人公は自分も後を追おうと思うが果たせず、電話相談に電話をかけ、そこで対応した男(加藤義博)と親しくなり関係を持つ。そのまま男の部屋にいついた彼女は、そのうち男の強いるままに、しかしながら同時に自分でもさして実感のないままに売春するようになる。
DVDのパッケージには「日活ロマンポルノ末期の傑作」と書いてあった。テーマ曲はユーミンの「ひこうき雲」。岡田有希子の自殺とか、「プッツン」とか、そういう言葉が劇中に出てくる。
ただ、私は日活ロマンポルノ作品をつまみ食い程度にしか見ていないので、どのくらいの作品があってその中でこの作品がどのような位置づけかはわからない。ちなみにこの作品の脚本は荒井晴彦なのだが、私は彼の手による作品をほとんど見てないので、その点からどうこう語ることもできない。なのであくまでひとつの作品として見ての感想。というか覚書。
ヒロインは「自分は(友だちが自殺した時点で)すでに死んでいるから、あまりの人生を生きている」とうそぶきながら自堕落な男の言うなりになり、昔の親友を自分と同じような世界に引きずり落としたりしながら、 しかしどうしようもなく子供なのだった。女のからだになって、ダメな男に愛想を尽かすでもなく付き合う風情はいっちょまえに「女」だけども、今ひとつこう、フラフラしている。ダメな女としてのフラフラではなく、さしたる意思もなく、人の人生を生きるかのごとくフラフラしているのだ。「あまりの人生」それ以前に、彼女はポッと飛び降りて死んだ友だちと同じく、実感を持って生きていない(なんて表現はどうかと思うのだが)、責任感のないいかにも10代な、要するに幼稚な女の子なのだった。ダメな男にくっついているのも、好きになってしまったから…てなことになるかもしれないけども、やっぱり悲しいまでにしたたかさに欠けた子供の感覚に思えて仕方なかった。
タイトルの「母娘監禁 牝(めす)」というのは、そんな彼女が(自力で本当はどうにかできるのに)にっちもさっちもいかなくなって最後には母親(吉川遊土)に電話してしまう、という終盤近くの場面から始まる一連のシーンを表している。娘を助けたいなら体を差し出せと言われ、その目の前で複数の男に犯された母親は、ことが終わって娘と帰る雨模様の道すがら、陽気に夕食のことを話していたと思えば、いきなり喉が乾いたと呟いて水に飢えた獣のように自販機のジュースを飲みはじめる。たぶんそれが(主人公に決定的に欠けていた)生きる上でのしたたかさであり醜さであり、強さなのだ。ちょうどサトウトシキの「今宵かぎりは・・・」のラストで黙々と食事をする葉月螢と同じく。それを見て主人公は嫌悪とも哀しみとも拒絶ともつかぬ表情で、雨の中を走り出す。
ラストシーンで主人公は最初と同じ浜辺を、今度は一人で歩く。まるで最初から全然変わっていないような、かわいらしい少女の顔で。しかしそれもなかなかしたたかではないかと私は思ったのだった。彼女もまた、確実に芽生えてきた図太さをもって自分の人生に戻ってきたということではないか。何事もなかったような素知らぬ顔で、ただ雨に濡れた風邪の名残だけを残して。
主人公の前川麻子(今は作家でもあるそうな)、加藤善博のダメなカップルがとてもいいです。特に前川麻子の透明感のあるかわいらしさにビックリ。同時に、ダメでボケでカスな男だが(笑)決して主人公が可愛くないわけでもなく扱いあぐねているような困った男・加藤善博の屈折具合にも大変味があります。
加藤善博が女を紹介して小遣いをもらってる金持ちの中年男が河原さぶ。若い。そして、この河原さぶと加藤善博のパシリ的存在が本多菊次朗なのだ!イエイ!最後、主人公の母親と絡むシーンで、最初はおずおずと、いつの間にか積極的に…という、まあレイプものでありがちな腹の立つキャラクターではありますが(苦笑)、しかし、2秒ほどアップになった時の様子は大変かわいらしかった…。(2003.7.11.)