冷たい雨 ―2―
飛葉は相変わらず両手をポケットに入れたままだった。しかし右手の指先にリボンがかけられた小さな箱が時折触れ、滑らかな包み紙の感触は飛葉の心をわけもなく躍らせる。掌に収まるほどの小さな包みを手渡した時、光沢のあるリボンをほどいて箱をあけた瞬間の、ビロードの上に飾られたアクセサリーを見た時の嬉しそうな顔が自然に脳裏に浮かぶ。少年院を出てから初めての贈り物はきっと、疎遠だった間柄を少しは良いものにしてくれるだろう。そんなことを思いながら、飛葉は浮き立つ心に押されるままに道を急いだ。
飲屋街の中心から少し外れた狭い路地の小さなバーの入り口の脇にある、人一人が通るのがやっとというような狭い道を抜けて辿り着いた裏口は薄暗く、薄いドアの辺りには空の酒瓶が入った箱が積み上げられている。幼い頃、夜遅くまで働いている母親恋しさに訪れた頃と変わらぬ風景に、飛葉は思わず苦笑してしまう。昔は飛葉の背丈よりも高かった筈の木箱の山も今では見下ろせるようになり、流れた歳月の長さが感じられる。
酔客を相手にしながら二人の兄弟を育てた母親は忙しく、共に夕餉の食卓を囲んだことは数えるほどしかなかった。またきかん気の強い飛葉とは正反対の、穏和な性格の兄を殊更かわいがる母親から優しい言葉をかけてもらった記憶もない。それでも母を慕う心を止めることもできず、飛葉は中学に入る頃から自宅に寄りつかなくなっていた。家にいたところで母親は仕事のために不在がちだったし、珍しく家に兄と飛葉、母親の三人が揃って顔を合わせたところで、母親の情の全てが兄に向けられるばかりで、飛葉は疎外感を味わうしかない。それでも――と思わないでもなかったが、優しい言葉一つかけてもらえぬ自分自身が哀れでもあり、それを承知の上で母親の傍近くにあろうとするのはあまりにも未練がましいように感じられたし、卑屈な感情を抱えたまま母親を待つことを彼の矜持が許さなかった。やがて飛葉は家よりも外に人とのつながりを求めるようになり、お決まりのように非行少年への道を歩むことになる。
飛葉の腕っ節と男気の強さは同じ境遇の仲間を惹き付け、彼の周囲には常に大勢の仲間がいた。仲間を助けるために、道を踏み外してしまった者たちに冷たい世間に対する憂さを晴らすための喧嘩沙汰が連日起こることも珍しくはなく、飛葉の日常が穏やかだったとは言えない。しかし飛葉自身を頼りとし、必要としてくれる仲間の存在は何にも代え難かった。それ故、飛葉の行動は次第にエスカレートし、ついには母親からも見捨てられる形で少年院へと送られた。
少年院にいた頃には面会にどころか、手紙一つ寄越さない母親を恨んだこともある。しかし母を嫌いにはなれず、ワイルド7の一員となって命ぎりぎりの戦いに身を投じるようになった今も尚、時折無性に恋しくなる母親の存在は、飛葉にとって不可思議この上ないものであると同時に、極めて神聖なものに近いものだった。
◇◇◇ 飛葉は詮無い考えをあれこれとめぐらせながら、ぼんやりと色褪せたドアを見つめていた。子供が母親に会いに来ることに、何の遠慮があるものかと思いもするが、同時に仕事のじゃまになるからとにべもなく追い返された幼い頃の記憶が蘇り、ドアを叩くこともできない。ポケット中の小箱に触れる指先が微かに震えているのがわかる。悪党を相手にしている時よりも情けない己の姿に、飛葉の顔に苦い笑いが浮かぶ。
ドアの向こうで小さな物音がし、飛葉は顔を上げた。中から出てきた蝶ネクタイの男は抜け目ない目で飛葉の頭の先から足の先までを眺め回し、
「子供の来る場所じゃねぇぞ」
と言い捨てた。
「飛葉って人、いるかい」
「いるにはいるが……何の用だ」
「大陸(だいろく)が来たって言ってくれりゃ、わかるよ」
飛葉の言葉に男は胡散臭そうな視線を寄越したが、黙って店の奥へと消えた。
随分長く思えた数分後現れた女は、飛葉を見るなり眉根を寄せて
「一体何の用だい」
と言う。歓迎されるとは思わなかったが、数年ぶりに見る母親の怪訝な顔は辛い。飛葉はそれでも精一杯の思いを伝えるために小箱を手渡そうとしたが、それよりも先に母親が口を開いた。
「お前……随分と泥だらけで、おまけに怪我までしてるじゃないか。どこかで喧嘩でもして、ここに逃げ込もうって算段なんじゃなあるまいね。だったら、とっととお帰り。うちは客商売なんだよ。喧嘩沙汰も面倒も、私は御免なんだから」
飛葉はそんな用件で来たわけではないと言いかけたが、声にはならなかった。飛葉を眺める母親はまるで他人のように遠く感じられ、どんなに言葉を尽くしたところで聞き入れてはもらえないように思え、飛葉は敢えて全ての言葉を飲み込んだ。ならば、せめてと飛葉は小箱だけでも渡そうとポケットを再び探る。
「ほんとに……お前は昔から何かと言えば私を困らせるようなことばかり……。今晩だって何も用がないのに呼び出したりするし……」
大切な用事がある。伝えたいことは、言葉にできないほどに抱えている筈なのに、肝心な時に何も言えない自分自身を情けなく思う飛葉にはお構いなしに、諦めたように嘆息した母親は、
「用もないのに、来るんじゃないよ。お前の相手をしてられるほど、暇じゃないんだからね」
と言って背中を向けた。その言葉に顔を上げた時には既にドアは閉じられ、母親の姿はどこにもなかった。
「やっぱ……こんなもんだよな……」
飛葉はそう呟き、何年も変わらぬ場所を改めて見回した。
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