吸殻の風景(草波Side)
あらゆる法律に精通している弁護士という立場を利用して、弁護を依頼した人々を強請り続けている男がいた。警察組織が捜査の手を伸ばそうにも、男は巧みに法の裏をかき、澄ました顔でのうのうと暮らしていた。その弁護士に強請られた結果、何もかも失った男が弁護士を襲ったのだが、用心深い弁護士が雇った警護の男に取り押さえられて警察に突き出された。数日にわたる事情聴取の後、彼は傷害罪で数年の歳月を高い塀で囲まれた空間で過ごすことになった。
草波にその情報が伝えられたのは、鉄格子の中で弁護士を雇った男が自殺して数日が経過してからだった。男の事情聴取を担当した刑事が草波を訪れ、調書や男が残した遺書など、警察組織が入手した資料の一切を草波に託し、弁護士が襲われた事件において、その犯人の大部分が、かつて彼の依頼者だった人間であったことを告げた。そして刑事は草波に、この件の収拾するため、ワイルド7の出動を個人的に依頼しにきたのだという。草波を個人的に訪れた理由について刑事は、『上司に進言したが、ワイルド7のような無法者の手を借りたとあっては、全国の警察組織の笑い種になってしまう」という理由で申し入れを却下されたこと。必要な資料を複製した後、全ての責任をその身に負うため、辞表を出してきたことなどを述べた。草波はワイルド7の出動を決定した。
◇◇◇ 草波とワイルド7の動向をダーゲットに知られないためには、ごく限られた人間だけで計画を進める必要があった。情報を収集と取捨選択を行い、周囲の状況を掌握した上で的確に指示を出す側と、本部から出された指示と提供された情報を基に、刻々と変化する現場の状況に応じて柔軟な行動をとるべき者。その両方が的確に、そして完璧と呼べるほどに呼吸を合わせられなければ、この作戦は成功しないだろう。一瞬の、ほんの些細な隙が的が活路を開く要因となりうる。
草波はワイルド7のリーダーである飛葉と作戦計画を練るために、メンバーの溜まり場となっているスナック『ボン』に出向いたが、店内にワイルド7のメンバーは誰一人としていなかった。彼は一人でチェス盤の上に並べたいくつかの駒を動かしたり、週刊誌をめくったりしながら時間を潰してみたが、閉店時間が迫った頃になっても飛葉は現れなかった。ことは急を要するため、この夜、草波は初めて飛葉の住むアパートへと向かった。
◇◇◇ 日付が変わってから数時間が経過し、誰かを訪ねる時間とはとうに言えなくなっているためか、路上から見上げた飛葉の部屋の灯は消えていた。草波は一瞬この訪問を躊躇したが、非常識な行動であることを承知で飛葉の部屋の扉を叩いた。
「……ったく、今、何時だと思ってんだよ」
飛葉は露骨に迷惑そうな表情を浮かべて大あくびをしながら、そして身体のあちこちをポリポリと掻きながらドアを開いた。
「……何か用ですか、草波さん」
「緊急の用件だ」
「どうぞ」
飛葉はそう言うと踵を返して室内へ戻り、草波もそれに続いて部屋に入った。そして室内を一瞥して
「……汚い部屋だな」
と言った。
「こんな夜遅く、人の部屋の抜き打ち検査にでもきたんですかね、草波さん」
飛葉は身体を震わせると、ガスストーブに火を点け、先刻まで身を横たえていただろう布団一式を一つにまとめたものを背もたれにするような格好で、ちゃぶ台の前に座り、立ったままの草波を見上げながら言った。
「座んないんですか?」
草波は周囲を見回しながら
「どこに? 足の踏み場もないぞ、この部屋には」
「その辺に散らかってるモノを、足でチョイとよけてくれりゃいいですよ」
飛葉の言葉通り、草波は足下に放り出されたままの衣類や雑誌、新聞などを手で横に退け、腰を下ろせるだけの場所を確保した。そして畳の上に散らばっていた新聞の中から、刑務所に収監されたばかりの囚人が自殺したという記事が掲載されている日付のものを選び出して飛葉に差し出した。飛葉は草波が指し示した記事に目を通すと
「長い話になりそうだ」
と言って立ち上がり、薬缶を乗せたガスコンロに点火した。腕組みをしながら湯が沸くのを待っている飛葉は、目を通した記事の情報を頭の中で整理してでもいるらしく、瞳の中に強い野生の獣を思わせる光が宿りつつある。草波はそんな飛葉を目の端で捉えながら、無言で胸ポケットから煙草を取り出した。
「飛葉、何か灰皿になりそうなものはあるか」
「ん? ああ、ちゃぶ台の上に灰皿がありますよ」
飛葉の言葉に草波が改めてちゃぶ台の上に目をやると、そこには酒造メーカーが販促用に酒店に配ったことが一目瞭然でわかる、安物の灰皿が置いてある。それを見た途端、草波の目に複雑な表情が浮かぶ。
大人の男の掌ほどの大きさの、ガラス製の灰皿は半ばセブンスターの吸殻で満たされている。その灰皿の大部分がフィルターから数センチの部分でほぼ直角に折れ曲がっている。中にはフィルター部分が本体から引きちぎられる程の力でもみ消されたものもあるが、概ね一定の力の入れ具合の吸殻が無造作に入っている様子から、セブンスターを吸った人間は自分ほど神経質な性格ではないようだ。それに殆どの吸殻の状態が似ていることから、その人間は非常に安定した精神の持ち主であるか、或いはこの部屋でリラックスできるかのどちらかだろう。煙草の主について考えをめぐらせていた草波は、吸殻の中に爪楊枝が混ざっているのを見つけた。その先端に茶褐色の液体によるものと思われる汚れが付着していることから、それは歯の手入れに使われたものではないことが容易に知れた。
「煙草、吸わないんですか」
飛葉が草波の前に湯飲みを置きながら言った。
「こんな灰皿が使えるか」
憮然とした表情で草波が答えた。
「まだ溢れちゃいないでしょう」
「灰皿というのは、誰かが使った後は吸殻を捨て、洗っておくものだ」
「うちは喫茶店じゃないんですがね、草波さん」
「そんなことは問題ではない」
そう言うと草波は、火の消えたセブンスターが入っている灰皿を飛葉の眼前に差し出した。
「それに俺が吸ったワケじゃないんですけどね」
「この部屋の責任者の役目だ」
飛葉は小声でブツブツと何か言いながら、不承不承といった風情で灰皿を受け取り、台所の隅に放り投げてある紙袋の一つに吸殻を空け、外へ出た。飛葉が階段を降りる音に、草波は耳を傾ける。
◇◇◇ 恐らく年末年始の休暇中のある日、世界がこの部屋を訪れたのだろう。そして道端で売られているたこ焼きでも買って食べたに違いない。草波は世界が飛葉に対し、自分と同じ恋慕の情を抱いていることを知っていた。しかし、それを歴然とした事実として見せつけられると面白くない。小振りとは言えない灰皿が8割がた満たされるほどの煙草を吸うには、1日か2日、或いはそれ以上の時間をこの部屋で過ごしたことになる。その事実に悶々とした感情を覚えるのは自分らしくない。また、そう考えるのは既に、飛葉に関しては世界に負けを認めたことと同義語ではないか。
草波と飛葉は上司と部下でしかあり得ず、また、その関係も利害関係が一致している時だけしか成立しない特殊なものでしかないことは、誰よりも草波自身がよく承知していた。いや、飛葉の野生の部分を常に最高の状態に保つため、むしろ自分から飛葉に憎まれるような言動をとっているとも言え、またその結果、草波と飛葉の間には、憎悪にも等しい執着めいた感情が常に存在している。必要に迫られ、飛葉との間に緊張した関係をその手で作り出し、決して破られることのない壁を築きながら、世界の残した吸殻が飛葉の部屋に存在する事実に動揺している自分自身の不可解な感情に
『これは嫉妬だ』
と草波は思った。ワイルド7の生みの親でありながら、そのメンバーの一員とは決してなれない草波とは異なり、きっかけさえ掴めればすぐにでも飛葉に触れられる、飛葉が窮地に立たされた時、自らの手で飛葉を助け出すことが可能な位置にいる世界に対し、嫉妬の念を覚えているのだ。飛葉に触れられる場所に存在することが許されない。理性では十分に理解しているその事実を形あるものとして突きつけられて動揺を覚えただけではなく、自分自身を動揺させた男に羨望さえ感じているのだ。
堂々巡りの思考を破るように、飛葉が寒風とともに戻ってきた。そして飛葉は流しで残った白い灰を洗い流し、草波に灰皿を手渡した。
「満足ですかい」
飛葉の言葉に草波は答えることなく、先刻懐に戻したチェリーに火を点けた。
んで、草波が吸殻を残していったのは、
世界に対するささやかな嫌がらせだったわけです。
報われない草波。いよいよ老け込む。
それにしても二人の大の男を手玉に取る飛葉!!
三国一のフェロモン男!!