早春賦-2


  1軒の寿司屋の前で立ち止まった世界に、飛葉が慌てて声をかけた。

「おい、世界。俺、金あんまり持ってねーよ」

「心配するな。ここは高い店じゃない。それに今日は、俺が奢ってやる」

「けどよ……」

「うどんの礼だ」

最後の世界の言葉に、飛葉のついさっきまでの不安げな様子は一瞬にして消し飛んだ。その現金な態度に苦笑しながら、世界は白木の引き戸に手をかけた。

「らっしゃい」

威勢の良い声で迎えたのは、初老の男だった。

「よう、旦那。久しぶりじゃねーか、元気だったかい?」

その痩躯から発せられているとは思えない溌剌とした声に、飛葉は少々面食らってしまった。どんぐり眼を見開いている飛葉にかまわず、白髪を短く刈り込んだ店主は世界に話しかける。

「それに今日は、随分と可愛らしいボウズを連れてるじゃねーか。仕事場のチビかい?」

「ああ、そんなとこだ」

世界はそう答えると、慣れた動作でカウンターの前に座り、それに倣うかのように飛葉がその隣に腰掛けた。

「いつものでいいか?」

「ああ」

白髪の老人は世界と短い言葉を交わした後、飛葉のほうに向き直って言う。

「で、ボウズ。お前さんは何にする?」

「うるせーや!! 俺はボウズなんかじゃねー!!」

日頃から子ども扱いされることをよしとしない飛葉が、店主に乱暴な言葉を投げつけたが、彼はそんなことに全く意を介さないどころか、毛ほども気にしない様子で、大きな声で笑い出した。

「いやー、威勢のいいボウズだ。気に入った。何でも好きなもの、言いな」

「だから、俺はボウズじゃねーって言ってんだろ? 俺の名前は飛葉だ。よーく覚えとけよ、ジジイ」

「はっ。ガキ扱いされてムキになるくらいじゃ、まだまだだな。俺から見ればボウズは、まだオムツもとれてない赤ん坊だぁな」

老店主の言葉にすっかり戦意を喪失したらしく、巻き寿司を注文した飛葉は、むっつりとした顔で茶をすすり始めた。二人のやりとりを隣で眺めて笑っていた世界に、飛葉が八つ当たりをする。

「世界。あんた、何笑ってんだよ」

「おお、そうだ。もっと言ってやれ、ボウズ。お前さんが赤ん坊なら、この男はまだまだケツの青いガキだってな」

店主はそう言うと、さも楽しそうに笑った。そして飛葉も老人の笑い声につられたように笑い、世界だけが面白くなさそうな顔で、目の前にあるガラスケースの中に並べられた寿司ネタの品定めをするばかりだった。

◇◇◇

 「ボウズ、次は何を食う?」

「んー、のり巻きと卵。それから……胡瓜巻きね。っと、それからお茶もおかわり」

「ほいきた」

手酌で燗酒を飲んでいる世界は、巻物や卵、稲荷鮨といったものばかりを注文する飛葉が、ひょっとしたら自分に遠慮しているのではないかと思ったが、差し出された胡瓜巻きを食べた途端、涙目になったのを見るや、その考えが杞憂であったことを知った。どう考えてもワサビが使われていない、空腹を満たすことを優先しているとしか思えないその嗜好は、明らかに子どものものである。先程から繰り広げられている飛葉の健啖ぶりに、世界は改めて飛葉がまだ成長期にあることを認識すると同時に、財布に何の心配も必要ないことを知った。

「じっちゃん、これ、ワサビ効き過ぎ……」

「なんでぇ、根性のねぇチビスケだな」

「チビって言うなよ。クソジジィ」

「口の減らねぇボウズだな。じゃ、次のはサビ抜きにしてやるよ」

「へへへ、悪りぃな」

飛葉と寿司屋の老店主はすっかり意気投合した様子で、遠慮が全く感じられない言葉を交わしている。気難しいことでは界隈でも有名なこの老人は、初対面であるにもかかわらず、飛葉を随分と気に入っているようだ。気に入らない客を追い返したりはしないが、そんな客が来た時にはあからさまに機嫌が悪くなる頑固者の老人が、初対面の、自分の孫ほどに歳が離れた客に打ち解けた表情をするのを、世界は初めて見たような気がする。世界は酒の肴代わりの穴子の握り寿司を食べながら、賑やかな二人の様子をぼんやりと眺めていた。すると飛葉が、

「おい、世界。あんた、陰気な顔して寿司食ってんじゃねーよ」

と言った。すると老店主は

「ああ、このダンナはいつも辛気くさい顔で食ってるから、ほっときな。口数が少なくて邪魔にならねーから、ウチの常連にしてやってるんだ」

「へっ? いっつも?」

「おお。番犬代わりにはちょうどいいやな」

老人の言葉に飛葉が腹を抱えて笑い出す。世界は『勝手にしろ』と言わんばかりの表情で、人肌に温められた日本酒を口元に運んだ。


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