桜 花
去年の今頃は厄介な任務に追われてしまい、いつの間にか冬が終わっていたことも知らなかった。周囲の変化に気付いた頃には既に初夏を思わせるような陽気の日が続き、その延長として梅雨の長雨が降り始めたのではなかったか――。
飛葉はそんなことを思いながら、のんびりとした気分で歩く。一昨日任務から解放された飛葉は丸1日、泥の中に沈む朽木のように眠り、目を覚ますと同時に感じた空腹に従って買い物に出かけることにした。いつ何時入るかわからない任務のため、食糧の備蓄には限界がある。常であればインスタントラーメンや缶詰などで、取り急ぎ飢えを凌いだりもするのだったが、薄汚れたガラス窓から差し込む日射しの明るさに誘われるように、散歩がてらの買い物に出ることにしたのだった。
空きっ腹を抱えていた飛葉は、すぐにでもそこいらの店で食事をとるつもりだったが、久しぶりに堪能する春の空気があまりに心地良かったため、持ち帰り用の寿司だけを商っている店に行き、巻き寿司だのいなり寿司だのを買い込み、六人の仲間が毎日のように顔を出しているスナック『ボン』に向かう。
店には世界と八百、ヘボピーとオヤブン、チャーシューがいた。飛葉が大量の寿司の包みを示し、通り向こうの川端の桜が満開だと告げ、店主のイコとその妹の志乃ベエにも声をかける。イコは店があるからと残念そうに答えたが、幼い志乃ベエはメンバーと共に花見に出かけると大いにはしゃぎ、イコは店で一番大きな魔法瓶に熱い茶を詰め、甘党の飛葉と八百、両国、志乃ベエにと数切れのケーキを箱に詰めた。その間にオヤブンが両国に電話をかけ、世界と八百が酒を買うために店を出、しばらくすると慌てた様子の両国が香ばしいコロッケを携えてガラスの扉を開く。
酒の到着を待ちわびながら、彼らは間もなく始まる花の宴をあれこれと話している。六分咲きの頃が一番だと語る者、やはり満開の花が最高だと誰かが言えば、萌葱色の葉が見え隠れする散り初めの姿が粋だとする者。それぞれが好む花の姿を語り、また仲間が口にする花の様子を瞼に浮かべたりもする。
つぼみが膨らむ気配やの花の盛りに、そして全てを覆い隠すように散り急ぐ薄紅色の花弁に心奪われる様に変わりなく、普段は血の臭いが満ちている殺伐とした世界に生きている無頼漢然とした彼らもまた、古(いにしえ)の雅人と同じく、日々移ろいゆく花の姿に心惹かれるのは何故なのか。幾百年もの歳月を経て伝えられ続けている花を愛でる心故か、或いは死と隣り合わせの激しい戦いが続く暮らしがそうさせるのか、それとも前途に続く道の頼りなさが刹那の夢を求めさせるのかもしれない。しかし、誰一人として何らかの理由を探そうとはしなかった。花の美しさに、美酒と肴に酔い、春の王が彩る宴に思うまま身を委ねればいい。仲間と共に束の間の幸福な夢に魂を遊ばせることこそ、刹那に生きるほかない彼らに許された、ささやかな自由でもあったのかもしれない。
◇◇◇ 川を見下ろす堤の上。若草の上、満開の桜の下に広げられた美酒と肴と菓子を味わう彼らは、ゆっくりと流れる長閑な時間を思い思いに堪能している。近在の住民に親しまれている花の名所とは言え、平日の昼下がりともなれば人手も殆どない。子どもや年寄りの姿がそここに見えるばかりで、堤は彼らの貸し切り状態だった。
微かに霞む春の空気は心地良い酔いを招き、ある者は夢の中で花を楽しみ、うららかな季節を謳歌している。またある者たちは杯を交わしながら他愛のない会話を交わし、水辺では志乃ベエたちが少々早い水遊びに興じ、それを眺めながら談笑する者たちもあった。
誰もがそれぞれに訪れたばかりの春の中にいた。
明日は桜の下に眠ると言われる屍と同じ運命を辿ることになるかもしれない。
けれど今、彼らの裡に流れる血は熱く、陽光のまぶしさも心地良く感じている。
日が陰った途端に温もりを失う春の空気はつれないものであったが、束の間肌をあたためてくれるだけで充分だった。
人の命も花の命も儚いからこそ尊く、慈しむべきものである。彼らはそれを、誰よりも知っている――。
彼らの花見の風景。
『花』と言えば、桜だそうです。
桜は日々姿を変えてしまうので、
花の時期には気もそぞろになってしまうのは
平安の時代からの人の営みだそうです。散り際の美しい桜の花は、彼らに少し似ています。