花 火


 茹だるような暑さに辟易し、飛葉がスナック『ボン』のドアを開けたのは午後三時を少し回った頃だった。

 西日が射し始める前にアパートから逃げ出したものの、目的地に辿り着くまでの道すがら、アスファルトから立ち上る熱気は全身に絡みつくようで、気力も体力も根こそぎ持っていかれそうな気がする。スタミナには自信がある方だが、任務から外れている状態では火事場の馬鹿力は出ず、身体中の毛穴から汗が噴き出るばかりだ。

 できるだけ足早に先を急ごうとはしているのだが、諦念だとか焦燥感がない交ぜになったような倦怠感を振り払う気力もなく、飛葉は殆ど惰性で、左右の足を交互に動かすばかりだった。

「暑ちぃ……夕立でもくりゃぁ、ちったぁ涼しくもなるだろうによ」

忌々しげに見上げる空にある太陽はまだ高い位置にあり、地面から離れられない人間をあざ笑っているかのようにも見える。

「ぼやくより、雨乞いでもしてみろよ」

からかいを多分に含んだ声に振り向くと、競馬新聞を片手に、オヤブンが笑っている。

「日頃の行いによっちゃぁ、一雨くるかもな」

血の雨だけは降らせてくれるなと肩を叩く手を、飛葉は鬱陶しそうに払いのけて、

「暑いってんだよ」

とだけ返した。

「ま、夏は暑いやな」

「わかってんだけどよ」

「ま、こうも暑いと、お天道様に文句の一つも言いたくなるのは、しゃーねぇさ」

「最近、雨も降ってねぇしよ」

「お湿りの一つもねぇとな」

「ああ、バイクを出した時、埃っぽくて敵わなねぇ」

 砂埃を噛んだ時の感触を思い出したのか、飛葉は顔の片側だけを器用に顰める。

「泥濘にタイヤを取られるよりはマシだけどな」

 確かに、と飛葉が苦笑いを浮かべたのを合図に、二人は肩を並べて他愛のないことを話ながら、ささやかな涼を求めて先を急いだ。

◇◇◇

 よく冷えたおしぼりで汗を拭う。クーラーから流れてくる涼風の心地よさに咽を鳴らしながら顔を拭き、それから首筋の熱気の名残を、そして腕だの肘だのを流れた汗を存分に拭き上げると、飛葉と親分の二人はようやく人心地がついたような息を吐く。

「イコちゃん、コーヒー。冷たいヤツ」

「二つだぜ、ふたっつ。ちめたいこーしー」

言いながら冷たい水を煽って、ようやく人心地ついたらしい二人はボックス席の背もたれに身体を預けた。

 クーラーの冷気で程良く冷やされた店内は、西日ばかりが当たる上に扇風機が壊れた飛葉の部屋とは、比べものにならないほどに快適だ。

 任務で一ヶ月ばかり家を空けている間、どこから忍び込んだものか、出したばかりの扇風機のコードはネズミに囓られていた。団扇では追い払えるはずもない、真夏の西日に蒸し焼きにされる前に、飛葉は部屋から脱出を図ったわけだ。そしてオヤブンはというと、任務で東京から離れている間に、居候を決め込んでいたとある女性の部屋に戻れなくなっていたという。

「で? 追い出されたってワケだ」

「いんや、部屋がよ、ねぇんだよな、部屋が」

「部屋? 丸ごとかよ」

飛葉が目を見開いて話の続き促すと、オヤブンは競馬新聞に赤鉛筆で書き込みをしながら、ことの顛末を語った。

 つまり、こうである。

 オヤブンがこのところ住みついていた、飲屋街にほど近いアパートは、付近一帯の再開発計画区域に入ってしまったそうで、いつの間にやらアパートがあった場所は更地になっていた。近所の煙草屋の亭主から話を聞いてはみたが、女は行方知れず。居候宛の置き手紙もなく、当然、女の部屋に預けていた荷物も消えてしまったという。

「運がないねぇ」

「そうとも言えねぇぜ?」

「書き置き一つ残さねぇで、女が消えたんだろ?」

「薄情女と後腐れなく縁が切れたんだ。俺は、運がいいんだよ」

 その強運で馬券を当ててみせると、競馬新聞に赤鉛筆で印をつけていくオヤブンを眺めながら、飛葉は窓の向こうに視線を移した。アスファルトは強い日差しを反射し、遠くには逃げ水が見える。きっと今夜は暑くて眠れないだろうと、確信に近い予感が脳裏を過ぎった。新しい扇風機を明日、きっと買うのだと決心してはみるが、かなり贅沢でも思い切ってクーラーを入れるのも悪くはない。かなり高い確率で、仲間が飛葉の部屋に居着く口実になるだろうことは容易に想像がつくけれど、東京で熱帯夜の安眠を確保するには他の手段が他にあるとも思えず、更に任務だ何だと家を空けることも多い──というより、家賃を無駄に払い続けているような暮らしでは、無用の長物に成り下がるだろうことは予想の範囲内だったりもする。

 悪党面ばかりが揃うむさ苦しさと熱帯夜。どちらがマシかと考えを巡らせていると、飛葉の耳元で大きな破裂音が響いた。

 何事かと慌てて音の方向にオヤブンが目を向けると、顰め面の飛葉が両耳を押さえている。

「ハッピーバースデー!! 飛葉ニイチャン!!!」

「おめでとう、飛葉ちゃん!!」

 店主のイコがにこやかにバースデーケーキを掲げ、その隣には妹の志乃ベェが色とりどりのテープを吐き出したクラッカーを手に笑っている。

「お、飛葉、お前、誕生日?」

「今日は何日だ?」

「八月一日だよ、飛葉ニイチャン」

自分の誕生日も覚えていないのかと、半ば呆れながら志乃ベェが答えた。

「ああ……忘れてた……そっか、もう八月か」

暑い筈だと飛葉が呟くと、イコと志乃ベェ、そしてオヤブンが失笑する。

「誕生日おめでとう、飛葉ちゃん。ケーキは志乃ベェと私からのプレゼントよ」

「デコレーション、良いセンスでしょ? ね?」

「もしかしなくても、志乃ベェが考えたのか?」

“まぁね”と、得意そうに笑う志乃ベェの髪を飛葉は、思い切りよくかき混ぜながら

「腹ぁ、壊さなきゃいいんだけどよ」

と、憎まれ口を叩く。間髪を入れず、志乃ベェが飛葉の顎に可愛らしいアッパーパンチをお見舞いし、大袈裟に飛葉が痛がってみせると、親分とイコはつられるように笑う。

 屈託なく笑う声に誘われるように八百と世界が店を訪れ、それからチャーシューとヘボピーがやってきた。

 彼らは飛葉の誕生日だと知ると、心ばかりのプレゼントを差し出す。オヤブンは予想的中率が八割を超えるという、競馬新聞用赤鉛筆を飛葉の左耳に挟んでやった。八百はポケットからチューインガムを引っ張り出し、世界は明らかにパチンコの景品の半端ものと知れる飴玉を。チャーシューは自分の店の割引券をテーブルの上のコースターで作ってやり、ヘボピーはキーホルダーにぶら下げていたインディアンの幸運のお守りを手渡す。

 どれもこれも使い古していたり、薄汚れていたり、ポケットの中でへしゃげていたりはしていたが、飛葉の誕生日を祝うには充分な品だった。

「そう言えば、両国はどうした? 珍しいな、ここに来ないなんてよ」

「仕事が立て込んでるんじゃねぇか? 社長より偉い課長だか部長だったっけか、ヤツはよ」

「まぁ、火薬屋は書き入れ時だもんな」

などと、九つに切り分けられたケーキを頬張りながら、一人姿が見えない仲間の噂が始まってしばらくすると、両国が大きな紙袋を片手に現れた。

「よう、両国。遅かったじゃねぇか」

八百が声をかけると両国は、どうしようもなく職場が立て込んでしまい、ようやく抜け出してきたのだと応える。

「ところで、お前、今日は何の日か知ってるか」

オヤブンが問うと即座に

「花火の日だよな」

と、両国が返す。

「どいつもこいつも、花火の日だ、何だのってー、急に思い出したように発注してきやがってよ。問屋跳び越えて、製造元のこっちまでてんやわんやだぜ、まったく」

噴き出す汗をおしぼりで拭い、冷たい水を一息に煽ってから、両国は持参した紙袋を志乃ベェに渡した。

「やるよ、それ。花火の日だからな。友達と一緒に遊ぶがいいさ」

両手で抱えるのが難しいほどの量の花火をもらった志乃ベェは、上機嫌で両国のためのアイスコーヒーの用意をしに、イコと共にカウンターに戻る。その後ろ姿を眺めながら、両国はポケットから小さな包みを取り出して、飛葉の掌に置いた。

「やるよ、それ」

「これ……?」

「ネズミ花火。お前さんにそっくりだろ? ちびっこいクセして威勢だけは良くて、うるさい上にはた迷惑だ。余ってたんでな、持ってきてやったぜ」

 両国の言葉にその場に居合わせた、飛葉以外の全員が一斉に笑い出した。両国はワケがわからず、飛葉に何があったのかと話しかけるのだが、飛葉はというと苦虫を噛み潰したまま、手の上に載せられた鮮やかな小さな花火を、所在なさげに弄ぶばかりだった。


8月1日は飛葉の誕生日です。
そして花火の日でもあるそうです。
同じ日付でも、働く業界とか住む世界で認識が違うのが、
割と新鮮に感じられる今日この頃です。

取り敢えず、飛葉ちゃん、誕生日おめでとう。

別館『煩悩猛進裏街道』に、ささやか続きもUPしました。


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