七夜目の真実―Side of two persons 7th―



 いつものように地下室に着替えと朝食を運び、ベッドに腰掛けている飛葉を見るなり踵を返して部屋を出ていった佐倉川が数分後に戻ってきた時、彼は肩を大きく上下させていた。

「傍に行ってもいいかな。その……手の手当をするだけだから」

手に提げていた救急箱を胸元に上げて示し、心配そうな目で自分を見つめている佐倉川から視線を外し、飛葉が素気なく答えた。

「勝手にしろ」

佐倉川は飛葉の逆鱗に触れぬよう、静かな動作でベッドに歩み寄ると飛葉の拳をとった。包帯代わりに巻かれた引き裂かれた白衣の表面には、乾いた血の染みが浮かんでいる。

「少し痛むかもしれないけど……ごめん、我慢して」

佐倉川は慎重に白い布を解き始めた。直接傷口に当てられた布に付着した血の量は少なくはなく、またそれが所々で乾いてしまっているために、何度か瘡蓋と共に布を引き剥がさなくてはならなかった。その痛みに飛葉の身体に僅かに緊張する度、佐倉川は謝罪の言葉を口にする。飛葉の右の拳を破ったのは彼自身であるかのように打ちひしがれた様子は、佐倉川と飛葉のどちらが怪我人なのかわからないほどに弱々しい。

「お前、物好きだな」

飛葉の声に、佐倉川が顔を上げた。

「てめぇを痛い目に遭わせた人間に、よく親切にできるもんだ」

「だって、このままじゃ傷が化膿するかもしれないじゃないか。手は大事にしないと。手は神経や腱だとか、細かい筋肉が集まっている部分だから、きちんと手当をしておかないと不自由になるかもしれない。飛葉君は男だから、傷が残るのは気にならないかもしれないけど、指先が思うように動かせなくなったりしたら、やっぱり困るじゃないか」

佐倉川に預けられていた飛葉の手が僅かに震えた。

「飛葉君?」

「救いようのねぇ大馬鹿野郎だな、おめぇは」

飛葉はそう言ったきり、俯いたまま声を殺して笑っていた。その理由がわからない佐倉川が、一体どうしたことかと飛葉に尋ねたが、飛葉は手当を続けるように短い言葉で佐倉川を促したきり、押し殺した声で笑っている。

 真新しい包帯が巻かれた拳に目をやり、

「世話をかけた。もう行け」

と、飛葉が言った。飛葉の様子が気にかかるのか、佐倉川はなかなかその場を動こうとはしない。

「聞こえなかったのか。俺は行けと言ったんだ」

静かな、けれど明確な拒絶の意思が込められた飛葉の言葉に、佐倉川は後ろ髪を引かれるように、けれど静かに地下室を後にした。

 巻いた人間の几帳面さがよくわかる、正確に同じ幅の分だけ布が重なっている包帯に目をやった飛葉は大きな溜息をつく。

「もう、茶番は終いだ。あいつにゃ、これ以上つき合えねぇ」

飛葉はそう呟くと、マットレスの下から銀色に光るピンのようなものを取り出した。幅が3ミリ、全長が50ミリほどの薄い金属片の片側に指の腹を当て、その切れ味を確かめた飛葉の口元が僅かにほころぶ。

「伊達に刃物振り回しちゃいねぇな。こんな小さな糸鋸の歯まで、きっちり手入れしてやがる」

 飛葉はドアに背中を向けて座りなおすと、足首を戒めている登山用ザイルに鋸の歯を当てた。屈強な山男の命綱の役割を本来の目的として作られたナイロン製のロープは思いの外頑丈で、精密工作専用の糸鋸の刃で切断するのは予想以上に骨が折れたが、太陽が真上にさしかかる頃には、飛葉は四肢の自由を手にすることに成功した。

「天窓から出るのは無理……か。と、なるとドアから出るしかないな」

 しかしドアのノブは左右どちらにも動かず、地下室に面した側には鍵穴らしいものもない。飛葉はドアに耳を当てて扉を軽く叩く。耳に響く音を確かめ、その後叩く位置を移し、その音と振動の変化を確かめた飛葉は

「嫌な感じのするドアだな」

と、溜息混じりに呟いた。

「場所によって音が違うってことは、少なくとも二重構造にはなってるって考えたほうがいいってことか。枠も、あちこちに仕込まれた横木なんかも、ムクの木を使ってるみたいだな。おまけにかなり太てぇときてる……」

飛葉は部屋の隅にまとめて置いてあった掃除用具のうち、最も頑丈そうなモップを選び、その柄を勢い良くドアのノブに叩きつけた。モップの柄は派手な音をたてて四方に砕け散ったが、ノブには僅かな傷しかついていない。飛葉は衝撃で痺れてしまった手を振る。

「ったく、馬鹿ってのは加減ってものを知らねぇから始末に負えねぇ。よくもまぁ、こんな頑丈なドアを作ったもんだ」

再び飛葉はドアを壊せそうなものをあれこれと物色してみたが、使えそうなものは何一つなく、錠を壊そうと糸鋸の刃をドアと壁の隙間に差し込んでみたものの、50ミリほどの長さしかない刃では手も足も出ない。ドアを破壊するしか脱出の方法ないことは明らかだったが、見るからに頑丈そうなドアを破るために利用できそうなものもない。オイルヒーターを分解してみようかと考えたりはしたのだが、金属製とは言え、熱伝導率を上げるために可能な限り壁厚を小さくしたオイルの循環パイプにモップの柄以上の強度が期待できそうにもないことは明らかだ。

「ベッドもなぁ……あれの足でもぶん投げられりゃ何とかなるかもしれねぇが……ベッドをバラバラにできそうな道具もねぇし、バラさないで投げるのもなぁ……おまけにコイツは馬鹿みてぇに重そうだしなぁ……」

飛葉は糸鋸の刃をベッドの足に当ててみたが、堅牢な木材が使われている木の表面に数ミリの切り込みができる頃には、既に刃は役立たずになってしまった。

 飛葉は糸鋸の刃を眺めた後、溜息をつきながら白衣のポケットにしまい込んだ。それから勢いよくベッドに仰向けに寝転がり、大欠伸をしながら

「果報と晩飯は、寝て待つに限る」

と独りごちた。それからしばらくすると、地下室に飛葉の高鼾が響き始めた。


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