七夜目の真実―Side of two persons 2nd―
キツネ色の焼き色のついたトーストが2枚。1枚にはバターと蜂蜜が、残りには辛子バターが塗られている。2種類のトーストとゆで卵、そしてテトラパック入りの牛乳の朝食を摂りながら、飛葉は彼を虜にしている男と昨夜交わした会話を思い返していた。
◇◇◇ 「君と友達になりたいんだ」
と、男は言った。
腹部に受けたダメージを必死で押さえ込み、弱々しい微笑みを懸命に浮かべようとしている男からは敵意の欠片も感じられない。自分に非があるとは言え、普通ならいきなり殴られたり蹴られたりしようものなら多少の反抗心のようなものを抱くはずではないのか。少なくともこれまで飛葉が相手にしてきた連中は、飛葉と敵対関係にある時は言うまでもなく、利害が一致している時でさえ対抗意識などから生じる、敵意に似た感情を持っているのが常だった。だが彼を拉致・監禁した男には好意と飛葉に拒絶されることに対する恐れしか抱いていないように感じられた。
そして友人になりたいと言いながらも、男は飛葉を解放しようとはしなかった。
「友達になってくれるって約束してくれるまで、帰さない」
そう言った男の目は真剣で、邪念や悪意といったものは欠片ほども見えない。それが飛葉には不可解だった。
ぐれて夜の街をふらついていた頃、飛葉に近づいてきた人間の多くが彼の懐の中の僅かな金銭などを目当てに、拳に力を漲らせて近づいてきたものだった。そういった人間を振り払うために覚えた力をもって示す抵抗は、次第に似たような境遇の者たちの間で噂となって広まり、いつしか飛葉の周囲には彼の腕っ節を頼みにするような連中が増え、それにつれて喧嘩沙汰も増えた。どこにもぶつけることができない衝動を昇華するためにオートバイを自在に操ることを覚え、それを闘争の手段にも使うようになった頃、飛葉は百名を越える人間の上に立っていた。仲間ができ、友人と呼べるほどに親しくなった者も中にはいはしたが、何故か漠然とした寂寥感を拭い去ることができなかった。突然思い出された、既に忘れきっていた頃の様々なことが飛葉の脳裏に次々に浮かんだ。
あの頃、自分に近づいてきたのは――その大部分が好意であったことに間違いがなかったとしても――横浜で最大の勢力を持つ暴走族のリーダーであり、腕っ節の強い人間だったからなのだと。何も持たない飛葉自身に何らかの価値を見出した者などいなかったのではなかったか。だから大勢の仲間に囲まれている自分を、まるで他人事のように眺めていられたのではないのか。何度となく深い仲になった女たちが別れ話を持ち出した時も、何も言わずに立ち去った時にも悲しいだとか寂しいといった感情が湧き起こることはなく、腹立たしいと思うことさえできない。むしろ幼い頃から慣れ親しんできた、一人きりだという状況のほうが肌に馴染んだ。それ故、女たちから解放された時には安堵に似た感情のほうが勝っていたし、特定の相手がいないことを不自由に思いもしなかった。人肌が恋しくなった時には、一夜限りの女を探せばいい。一人に耐えられなくなった時には仲間に声をかければ事足りる。だがそれでも、足下にぽっかりと口を開けている暗渠にも似た心の闇を消すことは叶わず、それから目を逸らし続ける日々を送っていたように思われた。
認めることができない心の弱さは、力を得ることで忘れることができた。とうに忘れていたはずの、既に彼自身の裡から放逐されていたはずの脆弱な感情の絃の一つ。飛葉大陸という人間とその生き方を奏でる感情の中では既に使われるはずのないそれが今、微かな音を通じて自らの存在を主張し始めている。
この時飛葉は、胸の奥に生じたこれらの痛みにも似た微かな違和感から無意識に目を逸らそうとしていた。見ることを望まないものが何であるのか、それが生じた理由を知るよりも重要なことがある。自由を奪われ、見知らぬ部屋に監禁されるという非常事態において、個人的な感情よりも優先させなくてはならないものは数え切れない。その最重要事項である肉体の安全と自由を確保するまで、余計なことに力を割く必要も余裕もありはしない。それは改めて考えるまでもないことだった。幾たびか死地をくぐり抜けてきた飛葉はこの窮地を脱するためにせねばならないことを、半ば反射的に認識した。明確な形をなさない感情について何も考える必要はない。ただ、それだけのことだった。