約 束


 自分の名を呼ぶ剣呑な声に振り向くと、三人の同級生が険しい表情で立っていた。設楽聖司はピアノのレッスンに向かうため、近道したことを悔やんだ。

 終礼が少し長引いた。遅刻にこそはならないが、時間間際に教師宅に到着するようでは、すぐに気持ちがレッスンには入れない。そう考えての選択だったが、間の悪いことにそれが凶と出た。

「お前、男のクセにピアノなんか習ってんだってな」

去年、クラスメイトだった少年が憎々しげに言う。

「生意気だぞ、女男のクセに」

「ちょっとピアノが弾けるからって、調子に乗ってるんだぜ、コイツ」

この春からクラスメイトになった二人が肩を怒らせて、聖司の行く手を遮るようにして立つ。

「来いよ」

そう言いながら、一人が乱暴に聖司の腕を掴み、もう一人が楽譜を収めたレッスンバッグを引ったくる。

「離せ。お前らと違って、暇じゃないんだ」

聖司は負けじと、クラスメイトを振り払う。

「何だよ、やんのかよ」

「やらない」

「逃げんのか? 弱虫」

「俺が弱虫なら、お前らは卑怯者だ」

「うるさい。来い!」

 どういう訳かは知らないが、コイツらはいつだって誰かと一緒になって聖司に突っかかってくる。決して一人では、そして大人がいる所ではかかってこない。それが気に入らない聖司だが、大切な手に何かあっては大変だという意識が勝り、されるがままに公園へと引きずられていった。

◇◇◇

 桜井琉夏と琥一の兄弟は、サッカー教室へと急いでいた。公園に併設されているグラウンドが間もなく見えてこようという時、

「あ、セイちゃんだ」

と、琉夏が立ち止まる。

 同級生らしい三人に引きずられている聖司を琉夏が指差すと、琥一はすぐさま踵を返した。

「セイちゃん!!」

「弱い者虐めかよ……カッコ悪ぃ」

「下級生のクセに、口出しすんな」

「うるせぇ!!」

「何だよ、やんのかよ!!」

上級生の挑発に答える替わりに、拳を振り上げた琥一が三人に向かっていく。琉夏はすぐさま聖司に駆け寄り、手を庇うように背中を丸める年長の幼馴染みに声をかけた。

「平気? セイちゃん。大丈夫、コウがすぐにやっつけてくれるよ」

コウは強いからと言いながら、琉夏は地面に散らばった楽譜を拾い集め、バッグに入れた。

「三人……いるのに……?」

震える声で呟く聖司は、体格で勝るはずの上級生を次々に薙ぎ払う琥一を、瞬きもせずに見ている。

「三人でも、何人でも、コウは絶対に負けない。ブラックは、強いんだ」

「何だよ、それ」

「知らない? ヒーローレンジャー。見てないの、セイちゃん。コウがブラックで、ボクがレッドだよ」

「知らない」

暴れる琥一から目を離せない様子の聖司の手を取ると、震える手が握り返してきた。

 琉夏は聖司の手が好きだ。自分よりも少しだけ大きな聖司の手が奏でるピアノの音は、とても綺麗なのだ。学校で一番ピアノが上手な幼馴染みの聖司は、琉夏の自慢でもある。それはきっと琥一も同じだということを、琉夏は知っている。でなければ時々、琥一の母に連れられて聖司の家に行った時、聖司の奏でるピアノをおとなしく聴いている筈もない。それに家に戻ってからも、琉夏がいつまでも聖司のピアノを褒めるのを聞いてくれたりもする。だから今も琥一は、聖司の楯になってくれているのだろう。

「まだ、やんのかよ!」

 琥一が怒鳴ると、涙と鼻水と土と傷まみれになった三人の上級生は、這々の体で逃げ出した。

「コイツに何かしたら、今度は俺が相手だ!!」

逃げる背中に言い捨て、琥一が琉夏と聖司を振り返ってニヤリと笑う。

「ケガ、してないか?」

「平気。セイちゃんも、俺も」

「よし、行くぞ」

そう言うと、琥一は聖司のレッスンバッグを掴み、グラウンドとは違う方向へと歩き出す。その後を、琉夏は聖司の手を引いてついていく。

「上級生に勝ったね」

「アイツら、三人のクセに弱かったな」

「うん、さすがブラックだ。コウ」

「セイちゃん、どうかしたか? ケガ、したのか?」

琥一の声に、琉夏は聖司を見た。聖司はしゃくり上げるのを必死で堪えながら、首を振った。

「びっくりしただけ?」

琉夏の言葉に聖司が微かに頷くと、少し怒ったようだった琥一の顔に安堵の表情が浮かぶ。

「お前、弱すぎ」

「でも、セイちゃんはピアノがあれば無敵だよ。ピアノはセイちゃんの必殺技なんだ」

「まぁな」

 少しずつ落ち着きを取りもしてきた聖司と共に歩いている途中、不意に琥一が言う。

「このこと、誰にも言うなよ。セイちゃんも」

「だね。喧嘩したってばれたら、また怒られる」

「男同士の約束だ」

「うん、約束だ。ね、セイちゃん」

返事の代わりに、聖司が琉夏の手を強く握った。

「セイちゃんも、約束だって」

「よし」

 そう言って振り返った琥一は、逃げ出した上級生と同じくらい土埃にまみれていたが、大したケガも涙もない。“やっぱり、コウはヒーローだ”。琉夏は思った。

◇◇◇

 レッスンに遅れたことがない聖司の到着を心配し、通りまで出てきていたピアノ教師に、三人は見つかってしまった。彼女は嫌がる琥一を、レッスン場でもある自宅に無理矢理上がらせて、その母親らしい年輩の女性に傷の手当てを頼んだ。それから、涙で汚れた聖司に絞ったタオルを渡して、何があったのか問うた。男同士の約束をしたばかりなので、琉夏と琥一、そして聖司の三人は何でもないと言い張った。何度か同じ遣り取りを繰り返した後、ピアノ教師は溜息をつき、聖司を伴ってレッスン室へと向かった。ほどなく聞こえてきた美しい旋律を聴いてから琉夏と顔を見合わせた琥一は、とても嬉しそうに見えた。

 サッカーの練習に遅れて参加してから家に帰ると、琥一の母親が待ち構えていた。おそらく、ピアノ教師が聖司の家に連絡を入れ、それが伝わったのだろう。

「二人とも、何があったの? どうして、セイちゃんまで一緒になって喧嘩するの? セイちゃんが手に怪我でもしたら、どうするの? セイちゃんのレッスンバッグまで取りあげたって、本当なの?」

 ガキ大将の琥一の喧嘩には慣れっこの琥一の母も、日頃から家族ぐるみの付き合いをしている、設楽家の聖司までが喧嘩に巻き込まれたことに驚いたのだろう。その剣幕はいつにも増して激しい。何度、喧嘩の理由を訊いても答えない琥一に匙を投げた琥一の母は、琉夏にその矛先を向ける。けれど、男の約束を守るため、琉夏も何も言わなかった。

 頑なな二人に、琥一の母は大きな溜息をつき、それから琉夏は琥一と共に聖司の家に連れて行かれた。聖司と、その母親を前にして謝るように言われたものの、琥一は悪くないし、琉夏も聖司も悪くない。悪いのは、三人がかりで聖司を虐めて、琥一に勝てなかった上級生の方だ。なのに、一体何に謝ればいいのかと考えあぐねた琉夏は、聖司を怖がらせてしまったことは良くなかったと思い至り、“ごめんなさい”と、頭を下げた。次いで琥一も、同じように謝った。聖司の母親の話では、どうやら聖司も何も言わないらしく、大人達が困り果てているのもわかった。聖司は居心地が悪そうに突っ立っていたが、やっぱり何も言わなかった。そうして、男同士の約束は守られたのだ。

◇◇◇

 遅くに戻った琥一の父親から、更に説教と拳骨を食らった二人だったが、やはり黙りを決め込んだ。ようやく正座説教から解放され、二人はそれぞれ、二段ベッドの寝床に潜り込む。

「コウ、起きてる?」

上段で寝ている筈の琥一に、琉夏が話しかけた。

「起きてる」

「あのさ、今度があったら、セイちゃんが怖くないように、もうちょっと離れて応援するよ。そうしたらさ、きっと平気だよ」

「そっか。それで、ルカがセイちゃんをピアノの家まで連れてけばいいんだ。そしたら、遅刻もしない」

「そうだね、そうしよう。約束だ」

「よし、男同士の約束だ」

 新しい男の約束を交わした琉夏は、満足して目を閉じた。

◇◇◇

 琉夏と琥一達が帰ってから、聖司もまた両親から詰問を受けた。だが、男同士の約束は守らなければならない。だから、聖司は無言を貫いた。そして、色々あってできなかった練習を終えてから潜り込んだベッドで、二度と近道は使わないと決めた。でなければ、きっとまた同じような目に遭うだろうし、あの無鉄砲で乱暴な幼馴染みの二人を巻き込みかねない。何もわかっていない大人達にいいように言われたり、されたりしないためにも。そして、三人で守った手を二度と危険に晒さないためにも、絶対に危ないことはしない。そう、聖司は決心した。


桜井兄弟に弄られることの方が多かったと思うけど、
いじめっ子とかから庇われることの方が多かったんではないかと妄想。

いじめっ子から庇う→喧嘩に巻き込まれる
荷物を持ってやる→荷物を取りあげられる

というような誤解も、聖司とか周囲の大人達からされてしまう琥一だったり、
お互いの事情とかが分かってても口には出せないのは、子供なりのプライドだったり、
まぁ、そんな子供時代を過ごしているといいなぁという。
あと、これくらいの時期って男同士の約束とか、自分達だけの秘密とか好きよね(笑)。


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