天使の素顔


 待ち合わせの30分前、はばたき駅に到着したばかりの紺野玉雄は、設楽聖司の姿を見つけた。先々週、一年後輩の水田まりと三人で出かけることになった時、設楽は15分前にバス停に着いた紺野よりも早く来ていたらしく、退屈そうに往来を行く人達を眺めていたものだ。定刻の10分前には水田が来て、自分達の姿を見つけるやいなや満面に笑顔を浮かべ、全力疾走とも呼べる勢いで駆け寄ってきた彼女に好感を抱かずにいられなかった。それは自分だけでなかったのだということは、人待ち顔の設楽の様子から、容易に窺い知れる。

「おはよう。早いな」

「お前こそ」

「設楽は最近、10分前行動に目覚めたのか?」

気まぐれな性質を隠そうともしない普段――というよりも、これまでの設楽を知っている紺野としては素朴な疑問のつもりだったが、彼の不機嫌のスイッチを入れてしまったようだ。

「別に。気が向いただけだ。あと、色々とタイミングの具合が上手くなかった」

 食って掛かってくる程ではないけれど、不快感を隠そうともしない声音と、チラリとでも視線を寄越さない設楽の態度に、紺野は僅かに苛立つ。早く水田が来ればいい。近頃、設楽と二人でいる時に限って、感じることが多くなった居心地の悪さは、水田さえいれば一瞬で解消されるのに。最低でもあと10分は設楽と二人、特に会話もないまま突っ立ているのはキツイ。駅ナカのコンビニで買い物をするほどの時間的余裕はないし、その間に水田が来たりしたらと思うと、この場を離れることもできない。

 そんなことをつらつらと考えていると、往来の向こうから駆けてくる水田が見えた。雑踏越しの垣間見でしかないけれど、確かに彼女だ。そう、紺野は確信する。傍らの設楽も水田の姿を認めたのか、ほんの少しだけ落ち着きがなくなり、代わりに微かな微笑みが目元に浮かぶ。

「設楽先輩!」

右手を勢いよく振りながら近づく彼女が、二番目に呼ぶのが自分である。彼女にとっては何でもないであろう、けれど、だからこそ微妙に傷ついてしまう自分の弱さに、紺野は胸の裡だけで苦笑した。

「紺野先輩も、おはようございます。すみません、遅れました」

「ちっとも遅れてないよ。まだ早いくらいだから、落ち着いて」

「それにしても、随分な慌てようだな」

 呆れたような設楽の声に弾かれたように、水田は至近距離で設楽に向き合う。最初に設楽の目を直視し、唐突に「失礼します」と言ってから、設楽の頬に両手で触れる。

「よかった……設楽先輩だぁ……生きてる〜」

しみじみとした声音に、思わず設楽と紺野は顔を見合わせた。

「あ、もうちょっと、いいですか?」

「あ……ああ。無茶は、するな」

「はい」

 素直に答えた水田は左右の手を設楽のクセのある髪に入れて、優しく梳くように動かす。時々、軽く髪の束を引っ張ってみる仕草は愛らしく、紺野は設楽を妬ましく思う。

 一旦、設楽の頬に戻った水田の指が下へと滑り、細い首筋へと流れるように移った。それから、桜色の指先で、男にしては白く滑らかな肌の上を、まるで何かを探るかのように動かしている。その所作は紺野から見れば行き過ぎているかのように感じられるのだが、スキンシップやボディタッチを好む水田にすれば、特に問題のない範疇にあるのだろうか。だとしても、朝っぱらから公衆の面前で……というか、天下の往来でやるようなことでもない。設楽の耳が熱を帯び始めるのを認めた紺野は、タイミングを見計らい、それとなく水田の自覚を促すべきだろうかと考えた時、

「よかったぁ、脈もあるある。右も、左も、ちゃんとしてる〜」

と、水田は言いながら、設楽を道連れにしたまましゃがみ込む。

「水田さん、一体どうしたの? 気分、悪いのかい?」

「紺野先輩……すみません、来た早々にワケわかんないことしちゃって……」

「おい……お前が先に詫びるべきなのは、俺に対してじゃないのか?」

小さな手を取りながら水田を立たせてやると、遅れて立ち上がった設楽が不機嫌そうに言う。

「だって、今朝方、怖い夢を見たんですよ。設楽先輩が消えていなくなっちゃう夢! 朝方の夢は正夢だって言うから、設楽先輩に何かあったらって心配になるし、怖くなるし……全部、設楽先輩のせいですからね」

「待て。お前が勝手に俺を夢の中に召喚しておいて、夢見が悪かったのを俺のせいにするのか? その無茶苦茶な責任転嫁、どういうつもりなんだ」

「だって、先輩がいなくなったら困ります! 三人でお出かけできなくなるんだもの!!」

「何なんだよ、その言い分は。お前、相当混乱してるぞ?」

「まぁまぁ、設楽も水田さんも落ち着いて。水族館に行く前に、どこかでお茶を飲もう。それで、水田さん。どんな夢を見たのか、話してくれる? 誰かに話すだけで、安心できることも多いから」

 設楽と水田の間に割って入り、紺野は取り敢えず事態の収拾を図る。気勢を殺がれた二人は紺野の提案を受け入れ、三人は駅から喫茶店に向かった。

◇◇◇

 温かい紅茶を一口飲み、水田が夢の話を始めた。

「今日は水族館に行く約束だったせいか、何だか私、待ちきれなくなって、ネットで海の生き物の動画とか画像を見ていたんです。そしたらクリオネが……」

「クリオネって、生き物の方のクリオネ?」

紺野の問に、水田はこっくりと頷く。

「クリオネって可愛いでしょう? 天使みたいなシルエットで、透き通ってて素敵だなぁって、前から思ってたんです。そしたら……」

「そしたら?」

「いきなり食事シーンが始まって……」

「ああ、あれ……ね」

「紺野。お前、知ってるのか? クリオネの食事の仕方がどんなのか」

「えーっと、大丈夫? 水田さん。今ここで、僕が話しても」

「はい、大丈夫です。お願いします」

律儀に頭を下げた水田の、ティーカップに添えられた両手に僅かながらも力が入る。

「クリオネは巻貝の一種で、日本では北海道沿岸に生息している、まぁ、軟体動物だな。北海の天使と言われることも多いんだけど……」

「それは、知ってる」

「だが、捕食行動は天使とはほど遠い」

「どういう風に?」

「頭に当たるというか、僕たちからは頭に見える部分がぱっかりと開いて、そこから飛び出した6本の触手が素早く餌になる動物を捕らえ、その体液を最後の一滴まで吸う。それがクリオネの食事のやり方。まぁ、女の子には刺激が強すぎるよな」

 自分がオーダーしたアイスコーヒーに添えられていたコースターの裏に、簡単な図を描きながら紺野が説明すると、設楽はあからさまに嫌そうな表情を浮かべた。

「夢に出てきたんです。お食事中のクリオネ……設楽先輩がいつか着ていた“クリスチアン・クリオーネ”のポロシャツが、大水槽の前でクリオネにいきなり変身して、シャツが裏返るみたいにして設楽先輩の上半身を包んで、シャツが触角みたいになって、設楽先輩がまるでイソギンチャクみたいになっちゃったんです。それで、設楽先輩はそのまま食べられちゃって……助けようとしたんです、私! でも、できなくて……設楽先輩、私の目の前でシワシワのクチャクチャになって……」

「そこで、目が覚めたの?」

「はい。目が覚めて、全部夢だってわかってたんですけど、でも、何だか不安になって……」

「優しいな、君は。そんなに設楽を心配したんだね」

 涙で瞳を潤ませた水田に、紺野は思わず声をかけていた。

「さっき、設楽先輩を見た時、生きててくれて、ホッとしました。顔を見ただけじゃ不安で、ついつい、頸動脈まで探しちゃって……すみません。あ、今更ですけど、凄く気持ち悪いこと、してましたよね、私」

「そんなことないよ、なぁ、設楽……って、設楽? どうしたんだ?」

「気持ち悪い……決めた。あのブランドのものは、金輪際買わない」

 設楽はテーブルに突っ伏したまま、妙に力の籠もる独り言を口にした。水田はというと、申し訳なさそうに紺野を見ている。

「今日はもう、水族館に行くのは中止にして、臨海公園で散歩でもしようか。ぶらぶら歩いて、その後、ショッピングモールで休憩。どうかな?」

「はい、紺野先輩。設楽先輩、フードコートのたこ焼き屋さんに新しいメニューができたんですって。行きましょう! 元気出ますよ、きっと」

「タフだな、お前ら……」

「普通ですよ、紺野先輩も私も。設楽先輩が繊細すぎるだけです」

 既に立ち直った様子の水田の逞しさに、切り替えの早さも彼女の美点の一つだと紺野は確信する。そして、いつか水田の夢を訪れる機会をものにするのだと心の中で決意した紺野は、そんなことはおくびにも出さず、今度は設楽の世話を、水田と共に焼き始めるのであった。


いっしーさんに捧ぐ(笑)。
というより、軽くケツを叩かれてしまいましたというか、
全員攻略1周目、おめでとう創作というか、ネタ、ありがとう、的な(笑)。

何かと話題の設楽先輩のクリスチアン・クリオーネのポロシャツも、
無駄に感性豊かなバンビ相手になると、隠された本性を曝し出すんだぜ!
三角関係の時、親密度の上昇と共にグレー味を帯びる紺野君が好きだ。


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