サクラ、サク


 塾の講師から中学受験を勧められたのは、学習塾通いが1年半ほど経った頃。母親よりも少々若い、微妙にイケメンの講師が、ひどく熱心に自分の進路について語るのを、まるで他人事のように、小学五年生の新名旬平は母と肩を並べて聞いたものだ。

 塾の保護者面談の場では即答しなかったが、塾の先生が良い進学塾を紹介してくれるらしいし、月々の月謝も家計を圧迫するほどではないからと、取り敢えず受験してみてはどうかと両親は言った。不合格になって公立中学に入る時には少々気まずいかもしれないが、この先──長い人生には似たようなシチュエーションはいくらでもあるし、本気の勉強に打ち込む経験は決して無駄にはならないだろう。もちろん、断ったって問題はない。多少なりとも興味があるなら挑戦してみてはどうかと、両親が言った。意外に乗り気だったのは両親でも新名本人でもなく弟の徹平で、自分の時の参考になるかも知れないから、取り敢えず中学受験というものをやってくれと言う。弟にそうまで言われしまえば断る理由はないし、何事も経験。合否に関係なく、経験という名のネタになるかもしれない。家族全員が何となく乗り気になっていた食後の家族会議を経て、新名の中学受験は決まったのである。

 塾を変わってしばらくの間、新名は授業についていくのが精一杯だった。しかし、実は結構な負けず嫌いなのだという自覚を、早々に持つに至り、しかし、それを周囲に知られたくないというカッコつけ体質も次いで顔を出し、新名は要領良く学習効率を上げる方法を模索するようになった。更に、決して安くはない月謝分を取り返すつもりで、空いた時間に学校教師や塾講師を質問責めにしたことは数知れず。勤め先の人事部で社内学習プログラムに携わっていた父親に、あれこれと尋ねながら自分なりの勉強方法を考えたりもした。その甲斐あって2ヵ月足らずで朧気ながらにも受験勉強の要領を掴めるようになって、更に1ヵ月が過ぎると、塾の席次もAクラス入り。また、その頃には学校のクラスメイトや塾の友人達の間で、新名のノートは評判を呼ぶようになっていた。

 やがて冬が終わって、小学6年生の三学期の終わりに、新名の元には所謂“サクラ、サク”の報せが届き、彼は晴れて『はばたき学園中等部』の生徒となった。

◇◇◇

 中学受験のご褒美は、優雅で愉快な毎日。勉強勉強のお陰で、何となくではあるものの自宅学習の習慣がついたし、学習効率を考えるのは嫌いじゃないし、自分で言うのも何だけれど、プランニングのようなものが得意だと、受験勉強を通じて知った。授業や学習内容の傾向と対策をほぼ正確に押さえられるお陰で、テストのヤマカケは高い的中率を誇り、クラスメイトに頼りにされることが増え、いつの間にやらクラスでもかなり良い立ち位置で、順風満帆の一年目がスタート。生来の小器用さが功を奏したお陰で時間の余裕もでき、帰宅部生活も存分に満喫していた。

 何事もなく二年に進学してから、14歳男子としては極めて健康的に目覚めたのは、ナンパ。仲間と連んでは、同年代らしき女子に声をかける放課後は、中々にエキサイティングだった。“脅威の3割打者も7割は三振”という名言を胸に、軽いフットワークと台詞で、当たっては砕け、砕けては敗者復活戦に挑む。打率を上げるためにオシャレのセンスを磨いたり、女子ウケの良い話題やアイテム探したりするのも、妙に性に合った。自分の長所を生かしつつ、ウィークポイントを克服しながら結果を出すなんてことも、少しずつ要領を掴めるようになったけれど、ナンパは受験勉強のような正解がない分だけオモシロイ。ガッツリ狙ってみたけど空振三振のこともあれば、何気ないアプローチが場外ホームランにもなる。そんな不確定要素が刺激的で興味が尽きなくて、3年生になる頃にはナンパ好きの間で、新名旬平は多少、顔と名前が知られるようにもなっていた。

 頬杖をついたまま、ぼんやりと窓の外に視線を逃がしている新名の肩が、軽く小突かれた。

「ニーナ、どした?」

「なーんでも?」

人好きのする笑顔を浮かべたクラスメイトに答えると、

「ダンナ、ダンナ。なんもないヤツァは、アンニュイに溜め息ついたりしませんぜ? しかも窓辺で。頬杖までついちゃてさ。女子ウケ狙うなら、わかんなくもないけど」

と、思いがけない反撃に遭った。

「つか、マジな話、元気ないじゃん、ここ最近。心配してんだぜ? これでも」

共に中学受験を戦った友人に笑顔を向けながら、

「んー、もうすぐ、卒業だと思ってサ」

と、曖昧に新名は笑う。

「まぁ、ね。けど、あんま、変わんないんじゃね? 俺ら、エスカー組っしょ。高等部に行っても、いつものメンツの中に新規の受験者がいるけどさ、仲間がメチャクチャ減るワケでもないし?」

「まぁ、そうだけどさ。貴重な期間限定っていうか、三年生の特権じゃん、こういう気分に浸ったりすんのもさ」

「それも、そっか。一応、卒業式もあるしな。ニーナ、お前さ、校章の予約、どした? あちこちから言われてんじゃね? 第二ボタンの代わりのヤツ」

「それ、全面的にパス。弟に渡さなきゃでさ。なくした時の予備にするって言ってたから」

「徹平だっけ? 弟がいたら、それもアリか」

「そういうこと」

「で、何? 悩み」

「だから、ねーって」

 普段から人付き合いと面倒見の良いヤツだけど、いつになく食い下がる様子に、それほどに情けのない顔をしていたのだろうかと、新名は思う。確かに、少しばかり落ち込んではいるけれど、悩みというほどのものではないのだ、アレは。果たされることのない約束というよりも、忘れることが難しい忘れ物。とは言え、一瞬でも手に入ったことなんかないのだから、忘れ物と呼べる訳でもない。中途半端に上手くコトが運びそうになった途端、縺れ込む間もなくタイムアウトにされたような気がしないでもないけれど、よくよく考えてみれば、特にこだわるようなことでもないのだ。

 実際、普段は新名も思い出したりはしない。けれど、うっかりと鮮やかに頭の中で再生される四度の出会いは、未だ記憶の海の中で存在感を放っている。クルクルとよく動く表情と小さな手。妙に気丈で、意外に力持ちだったりする上、駆け足で立ち去る時の見事な走りっぷりは見事の一言で。でも、港を巡る遊覧船の上でよろめき、支えた時に知った華奢な身体とか髪の匂い。手強そうでいて、不思議な親近感があるのも印象的だった。

 忘れた頃にまた会えるかも知れないし、二度と会えないこともあり得る。とは言え、会えないまま美しい青春の1ページにするのも悪くない。

 卒業式を間近に控えたこの頃では、どちらでも構わないと考えていた。『はばたき学園高等部』は内部進学者が全校生徒の大部分を占めるけれど、文武両道を地でいく有名校故に高等部への受験生も少なくはない。桜が咲く頃には、だからきっと、中等部でのあれこれを思い出す暇もないくらい、色んなオモシロイことが待っている筈なので、あの出会いと再会を思い出す暇はなくなるだろう。だから今、中学卒業を控えた微かに感傷的なこの時期限定で名残を惜しむのがオツなのだ。むしろ、堂々とアンニュイな気分に浸りきることのできる、貴重なこの機会を楽しめばいい。そう考える新名であった。

◇◇◇

 16度目の桜咲く季節。新名旬平は『はばたき学園高等部』校舎に初めて足を踏み入れた。真新しい制服は気分をアゲてくれるし、校舎はどこもかしこも目新しい。浮かれ気分で体育館に向かっている時、思いがけない絶妙なタイミングで美しき青春の1ページは、清らかな思い出になりそこねた。

 予測も予感もしていなかった、不意打ちの再会。そして、その瞬間、新名を見た彼女はバカみたいに大きな瞳を見開いていて、おそらくは新名も負けないくらいに惚けた間抜け顔を晒しながら、互いにたどたどしい言葉を口にするしかなかった。彼女が一年先輩だという事実に本気で驚いた上、せっかくの再会だというのに、実にあっさりとあしらわれた感のある対応が心許ないような腹立たしいような、形容しがたい気分になる。自己紹介を合わせても二言三言を交わしただけの再会は、今し方先輩になった水田まりの、いかにもといったような台詞で終了。入学式に遅れる訳にもいかず、新名は別れの挨拶もそこそこに早足で体育館に向かう。見慣れない廊下を進む足取りがやたら軽いことはさておき、水田がいれば愉快な新生活は約束されたも同じ。

「なんか、ヤバイ……かも?」

 取り敢えず、頬杖なんかついてる場合でもなければ、斜に構えている暇もない。今までよりも確実に刺激的で新鮮な学校生活が、すぐそこで待ちかまえているのだ。これを楽しまない手はないどころか、自分次第で何とでもできる。否、ボヤボヤしている暇なんかないというか、さっさと大体のところだけで段取りをして、いや、その前に水田のクラスとか部活とかを確かめて、ああ、その前にバイト先に顔を出してシフトを確認して、デートに誘うのは、それからだ。そんでもって、いざという時の為にケータイの番号とメルアドを交換して……。

 自分でも驚くくらいハイテンションでフル回転する色々なものを、新名は頭の中でどんどんと片づけていく。数多の事柄に優先順位をつけながら、無駄のないように頭の中を整理するのは得意中の得意とするところだ。中学受験を乗り切った特技はダテじゃない。というか、年上の彼女とお近づきになるために、今こそヤマカケと反復練習と暗記と、条件反射に近いくらいまでに磨き上げ、更にはナンパ仕様に発展させた面接用の質疑応答術を実践するチャンス。

 ついさっきまでは軽やかなだけだった足取りは、どんどん軽快に、リズミカルになっていって、新名はとっくに自重という言葉を明後日よりも前にうっちゃってしまった。僅かに残る理性で緩む口元を抑え込んではみたものの、正直、効果なんかどうでもいい。運命の女神にだけは愛されちゃってるかも知れないと、少しでも思える今は前進あるのみ。進んだ先には必ず何かがある筈で、自分は楽しいものを見つける才に長けているのだから大丈夫。そんな期待に胸を躍らせる新名であった。


小器用でノリが抜群で人懐っこくて社交的。
おまけに要領も人当たりも良い新名は、完璧なリア充。
更には先輩にも無駄に恵まれて、楽しい高校生活を送るワケですが、
その前に、多少のアンニュイな季節もあるといいと思いました。

青春組では嵐っさんに手も足も出ないので、新名を書く練習というか、
新名を書けないと色々と捗らないにも程があるのです。

問題は、新名が心太で進学したのかどうか、イマイチ確信できないとこですな。


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