姉と弟


 夕食後、弟は早々に自室に隠ってしまった。紺野珠美は食後のお茶を飲みながら、一流大学入学後、妙に洒落っ気が出てきただけでなく、テニスサークルなんかに参加したり、ボランティア活動に勤しんでいる弟・玉緒の変化に多少の戸惑いを感じている。生真面目で、どちらかというと要領が悪いクセに、何故か学級委員や生徒会長によく推薦されるというか、断り切れずに色々な役目を引き受けてしまい、進級や進学の度に落ち込んだり悩んだりする弟に、嫌なら断ればいいのだと言ったこともあった。けれど、玉緒は「でも」だの「だって」だのと言っては、結局は引き受けてしまう。困ったことに、イッパイイッパイになりながらも、周囲の期待以上に役目をこなしてしまい、再びクラスやクラブのリーダーを引き受けてしまう悪循環に陥っているのも知っている。

 6歳違いの弟は、珠美が通っていたはばたき学園に入学し、生徒会執行部に入った。半ば周囲に流されるようにして入部したのは薄々感じていたが、2年生になってしばらく経つと、妙に前向きになったり、休日の外出が増え、出かける前には玄関の下駄箱の扉についた大きめの鏡で全身チェックなんかもしている。

 好きな子ができた。

 そう、女のカンがが告げている。本人は隠そうとしているが、間違いない。恋に浮かれているのだ、アレは。しかも、初恋。相当に浮かれてる。絶対に。今、部屋にこもっているのもソレだと確信した珠美は、弟をからかうために席を立った。

◇◇◇

 玉緒の部屋のドアを開けると、部屋の主はあからさまに不愉快な声で言った。

「ドアを開ける前に声をかけると、ノックするくらいしてくれよ」

「何よ、疚しいことでもあるの?」

「そうじゃなくて、マナーだろ、マナー」

 そう言うと玉緒は、床に並べた望遠レンズを思案顔で眺める。

「どこ行くの?」

「どこって……べつに、いいだろ? どこだって」

「何よ、その言い方。どうせ、電車を撮りに行くんでしょ? だったら、お土産頼もうと思っただけじゃない」

「で……電車じゃないよ、明日は」

珠美の言葉に慌てふためいた玉緒は、うっかりと手にしていた望遠レンズを取り落としそうになった。

“やっぱり、あやしい”

 玉緒は耳まで赤くなって、珠美の方を見ようともしない。

「電車じゃないのに、何でおっきいレンズを持っていくのよ? 何か、疚しいことでもあるんじゃないの?」

「疚しくなんかないって、言ってるだろ?」

「そう? そうでもなさそうだけどなぁ……」

 弟の玉緒は所謂“鉄オタ”で、電車や駅舎の写真を撮るのが大好きな“撮鉄”だ。学生故に遠出こそしないまでも、小遣いを遣り繰りして鉄道写真を撮りに出かけている。中学受験の頃からは少々控えていたが、大学のサークル合宿の時も、せっかくだからと合宿所の近くの駅で、ローカル列車の写真を撮っていた。写真が趣味の、年嵩の従兄弟から譲り受けた一眼レフカメラの被写体は、珠美の知る限りでは電車だけだ。

「姉貴には関係ないだろ? 何か用? ないなら……」

「だから、どこに行くの? お土産頼みたいんだけど」

「お土産なんか買えないよ。明日ははばたきスタジアムに……」

「はばたきスタジアム? 鉄道イベント、あったっけ」

夏休みには学生が参加するスポーツの大会が連日開催される“はばたきスタジアム”は、高校時代にバスケ部のマネージャーをしていた珠美にも馴染みがある。

「ないよね。あそこでは、そんなイベントやんないもん」

視線をそらせないよう、珠美は玉緒の真正面に腰を下ろした。

「で、何? 頼まれたの? 誰かに写真撮って欲しいって」

「そういう訳じゃ……」

 子供時代の年齢差は、そのまま姉弟の力関係につながっている部分が大きい。1歳2歳でも、子供の頃は身体能力や経験値がハンディとなる。ましてや珠美と玉緒のように6歳もの年齢差があると、姉の存在はほぼ絶対と言ってもいい。そして、玉緒が珠美の背をとっくの昔に追い抜いてしまった今でも、小さな頃の力関係は継続されている。

「じゃぁ、どういうわけ?」

「後輩が……出場するんだ。その……新体操部の選手で……今年は全国優勝を狙えそうだっていう話で……」

 茹で蛸のような顔をした玉緒が、しどろもどろになるのを眺めながら、姉のカンと女のカンが的中したことに、珠美は密やかな満足を覚えた。

「それで、わざわざ写真、撮ってあげるんだ」

「わざわざじゃないよ。明日は……たまたま予定がないだけで……」

「競技中は、フラッシュ炊いちゃダメなんだよ?」

「わかってる。だから、ちょっと感度の良いフィルムを用意したんだ。ASA400とASA600。屋内だけど昼間だから、大丈夫かと思って。念のために800も用意はしてるけど……」

「デジカメじゃないの?」

「まぁ……高校生活最後の大会だから……フィルムの方がいいかと……。ASA600なら、全紙に引き伸ばしても粒子が荒れないし……」

 言われてみれば、パック買いされたフィルムがある。しかもリバーサルフィルム。珠美自身は写真に大した興味はないが、年嵩の従兄弟と玉緒のお陰で多少の知識はあって、そのお陰で弟の本気さ加減がよくわかった。

 だが、問題は新体操の全国大会に、一眼レフカメラよりも大きな望遠レンズと三脚。それにシャッター用のリモコンを持っていけば、周囲からどんな目で見られるのか分かっていない弟の常識だ。レオタードの女子高生選手が集う中でそんなものを持ち出せば、スケベ心丸出しのカメラ小僧にしか見えないということに、全く気付いていない。というより、生真面目な玉緒には下心満々でスポーツ観戦に行くという発想が、そもそもないのだろう。

「へぇ……よくわかんないけど、良い写真が撮れるといいね」

「うん、頑張るよ」

 ようやく笑顔を見せた玉緒に応援の言葉をかけてから、珠美は弟の部屋を後にした。おそらくは、まだ付き合っているとは言えないだろう後輩に、この際ドン引きされるのも青春の1ページになるだろう。それも人生経験。堅物の弟には良い勉強になるだろうし、珠美としても結果がどっちに転んでも、しばらくはからかいのネタが手に入るので問題はない。ある意味、できた弟を持ったことを、珠美は誰にともなく感謝したのであった。


紺野家の日常と、玉緒が撮鉄でなくて良かったね、というお話(笑)。

昔の職場の同僚に
「弟と書いて、私の玩具と読むのよ」
と言った、美人がいました。
気だても良くて、仕事もできたんですけどね。
兄貴のいる私としては、微妙な気分になったワケですが(笑)。


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