エウレカ


 僕は世界を見捨てる――それが世界の選択ならば。

 

 

 ゆるい放物線を描いてバスケットボールが落ちてゆく。板張りの床に鳴るシューズの音や体育館の高い天井にこだまするドリブルの響きを、昨日のことのように思い出す。ボールを胸につけて身構える瞬間、狩谷は誰に教わったわけでもないのに息をとめた。やがてネットが揺れてボールが吸いこまれてゆくまで、祈るような思いでその行方をみつめるのだ。
 夢はいつも美しい。それはこの先も決して、自分が二本の脚で歩くことはかなわないという事実によって、泣きたいほどのあこがれになる。今すぐ布団を蹴って、どこかへ駆け出したくなる。それすらも残酷な夢にみたことがあった。夢に飛び起きて自分の脚で立ち上がるという、二重に手のこんだ悪夢だ。現実の狩谷は自室の暗闇に目を見ひらき、上半身を腕で支えてのろのろと起きあがるだけだ。そうして、自分へのありったけの憎悪をこめて、ベッドに拳を叩きこむ。世界が急速に遠のいてゆくのは、そんな真夜中だ。不安な夜の底にたった独りで、頼るべき人の名も思い浮かばない。
 戦時下という特殊な状況の元で、世界を憎むのは簡単だった。少年兵を強制召集するというもはや末期的な戦局、出撃命令が下ればたちまち軍隊に変わる学校。かつて信じていた平凡な明日が、ある日突然奪い去られていることに気づく。狩谷は、眉ひとつ動かさず出撃を命じる善行を憎み、唯唯として命令に従うクラスメートたちを憎んだ。
 熊本にきて、最初に与えられた仕事は士魂号の整備であった。だが無難に仕事をこなして発言力を溜めたのち、狩谷は時期をみて司令職に転属を申し入れ受け入れられた。ウォードレスも着れない自分が前線に出るには、他に方法がなかったからだ。
 死んでしまおう――この世界に未練はなかった。歩けないと決まった日から、世界は狩谷を冷たく見放したのだ。だが自殺する勇気はないし、両親の死後、自分を厄介払いした連中の望むとおりになってやるのも癪である。だが戦場ならばいいだろう。そこで死ねなら誰の得にもならないし、きっかけなどいくらでも転がっていそうだ。教師は云った、戦争とは愛国者がどれだけ死んだかで勝敗が決まるのだと。知ったことか。自分は愛国者ではないし、幻獣が勝とうが人類が負けようが関係ない。強要されて死ぬのではなく、自ら選んで死ぬのだ。それが狩谷の最後の矜持だった。

 

「ああ、なっちゃん」
 数時間に及ぶ戦闘を終えて、指揮車から降りようとしていた狩谷の前に、外から乗りこんできた加藤が立ちはだかった。
「なんや、どこ行くん?」
「外だよ。いい加減、新鮮な空気が吸いたいんだ」
 加藤のブーツに、こつんと車椅子の車輪があたる。
 戦場に散らばったスカウトや士魂号の帰投を待つだけの、手持ち無沙汰な時間だった。司令としての狩谷の仕事はひとまず終わっている。指揮車を出て一息つくくらいは許されるはずだ。5121小隊は今回も善戦した。八代戦区防衛戦、幻獣の総撃墜数は46だ。
「そこをどいてくれないか」
 狩谷の言葉に、居心地がわるそうに身じろぎをしていた加藤は、結局は道をゆずって、地上に降りるタラップをあけわたした。
 指揮車の外は兵士達のざわめきに満ちている。今回も生き残ったことを喜びあう無邪気な学兵同士の声や、負傷者の手当てに駆け出してゆく衛生兵の足音。壬生屋の乗った一号機が帰投しており、原整備班長率いる整備士たちが早々と故障箇所の応急修理を始めている。
 狩谷は勝利後の高揚した雰囲気を避けるように車椅子を操った。兵士たちの歓喜に水をさす気などないが、生き残ったことを喜ぶ気持ちもないのだ。だが、そこから答えの出ない堂々回りを始める前に、泣き叫ぶ女生徒の声を耳にして顔をあげた。小隊の整備車両の隣には、尚敬高校の戦車班が駐留している。こちらでは負傷者が出ていたらしい。なぜ先刻、加藤が自分の行く手を遮ったのか、狩谷は理解した。救急車両に担ぎこまれる担架の上の生徒は、腰から下の片足がない。赤黒い血にまだらに染まる狙撃仕様のウォードレスと、場違いなほど鮮やかな人工筋肉の白い血液が、狩谷の網膜に不快なしみを作る。

「可哀想やな…」
 背中から声をかけられても驚きはしなかった。おせっかいな彼女なら、自分の後を追ってくるだろうことは容易に想像できたからだ。
「最近あんな負傷者多いんやて。幻獣が手加減しとるんかしらんけど、人間の身体の一部を食いちぎっては、戦場に放っておくねんて。正規軍のお兄ちゃんたちが云うてたわ」
 加藤はそのあっけらかんとした人当たりと調子の良さで、あちこちに首をつっこんでは様々な情報を集めてくる。
「昔のな、どこぞの国の内乱で同じようなことがあったんやて。戦場に地雷をしかける時にわざと殺傷力を弱くして、兵隊の脚なんかを吹き飛ばすだけにしとくねんて。殺さんと負傷者を増やしてやった方が戦力は減るし、国の財政にも負担がかかる――」
 加藤はふいに口をつぐむと、車椅子の向きをぐるっと回転させた。気まずい沈黙が落ちる。
「ごめんな、うち、ペラペラとしゃべりすぎや。あの負傷した女の子見たら、なっちゃんが厭な思いするかと思って」
「分かっている。そんなに過保護にならなくていい」
 狩谷のそっけない言葉に、加藤はほっと安堵のため息をついた。
「ほんと、ごめんな。あ、速水くんたちもう帰ってきとるで。整備班も撤収の準備は済んだ云うてる」
「じゃあ、さっさと学校に戻るとするか」
「はい、司令」
 懸命に明るい声をこしらえて返事をすると、そのまま加藤は慣れた手つきで車椅子の背を押してくれる。
 西の空が夕焼けに染まり始めていた。まるで血のようにまじりけのない赤だ。友軍の戦車や整備車両がキャラバンのように連なって、荒れ果てた地面に黒い影を落としている。
 じきに夜がくる。学校に帰れば士魂号の点検整備や、突然の戦闘によって中断された仕事が残っており、自分もふくめた小隊の生徒たちが帰宅できるのは真夜中になるに違いない。そっとため息をつきながら頭上に眼をやって、狩谷は唐突にそれをみつけた。鮮やかな緋色の空に浮かぶ、銀色の翼の幻獣を。
 背後の加藤を振り返る。しかし彼女はあの幻獣に気付いていない。いや、周囲を行き交う友軍兵士のだれひとりとして気付くそぶりもない。地面に落ちる影を探した。しかし銀色のあれは、すきとおっているのか影もない。狩谷は首をめぐらせて、漂う幻獣の行方を追った。今にも焼け落ちようとしていた夕陽が、ふいに飛び込んでくる。ぎゅっとつぶった瞳のなかで炎が踊った。まるで幻獣の赤い瞳のように。幾筋もあざやかな色彩を巻き散らしては、強烈な残像を焼きつける。気息を整えようとしてもかなわず、痛みと色彩に翻弄されるしかない。ようやく顔をあげた時には、幻獣の姿を見失っていた。
「なんや、なっちゃん、寒いん?」
 突然、自分を抱き締めて身震いしだした狩谷に、加藤が声をかける。だが学校に戻るまで、狩谷は口をきくことができなかった。

 

 真夜中は嫌いだ。灯火管制のおかげで、かつての記憶よりも夜はいっそう昏く、闇を怖がった幼少時の記憶をまざまざと蘇らされる。あの頃は、泣けばたちまち自分を抱きあげてくれた優しい母親の腕があった。今、この部屋に突然幻獣が現われたとしても、車椅子がなければ一歩も動くことのできない狩谷を、救い出してくれる者はいないのだ。そうして自分は人知れず、幻獣に喰らいつくされる――いや、幻獣が人を喰うなどという話は、生徒会連合本部からの通達にもありはしない。
 学校に戻るなり熱を出した狩谷を心配して、加藤と若宮が下宿まで送ってくれた。一晩中でも付き添っていたそうな加藤を若宮に頼んで送ってもらうと、独りの部屋の闇は一層深くなったように感じられた。昼間に戦場で視た、あの負傷した女生徒を思い出す。引きちぎられた脚と、血にまみれたウォードレス、赤い血と白い血と。二本あるべき脚が、一本しかないという恐ろしいビジョン。狩谷の脳髄をかきむしる、焼けつくような焦燥感。あの女生徒は死んだろうか、それとも生き残って片輪になった自分を嘆き、幻獣を憎むだろうか。常夜灯もつけない独りの部屋はおそろしく空虚だ。発熱はおさまりそうになく、ふわふわとした酩酊感が身体を包んでいる。窓だけがぼうっと発光するように明るい。うすいカーテンを透かして月明かりがもれてくる。
 月? 月など出ているものか。
 うずくような予感にかられてカーテンを開けると、銀色の幻獣がそこにいた。戦場で視た時よりも間近に、今にも窓に触れそうなほどだ。夜のなかでぽっかりと、そこだけが淡く輝いている。
 悪夢が現実になった。両親が死に、歩く能力を失い、徴兵されたあげくに学兵ばかりの最悪の戦場に駆り出される。悪夢も極まったような現実に生きていながら、それでも狩谷はどこかで奇跡が起きるのではないかという、淡い期待を捨てることができなかった。無論、加藤や速水にすら話していない。だがもしかしたら、自分は再び歩けるようになるかもしれない。プレイヤーとしての再帰は無理だろうが、何かバスケットに関わる職業につけるかもしれない。自分がこの戦争に生き残れたら、人類がこの戦争に勝利できたなら。
 狩谷はひきつった笑いを浮かべた。審判がくだされたのだと思った。奇跡など起きない、ここで死ぬのだ、あの銀色の奴に殺されるのだ。だが幻獣は襲ってはこなかった。赤い瞳をこちらにすえて、音もなく空中に漂っているだけだ。やがて朝日と共に輝きを増すそれは、神々しいまでの光に包まれて辺りをいっそう照らし始めた。

  * * *

「幻獣共生派?」
「ああ、どんな情報でもいい、何か聞いてないか」
 たちまち加藤が眉をひそめる。「その名前はめったに口に出さんほうがええで」と云ってから、「まあ、色々と」とつぶやいた。
「今、その話題はめちゃめちゃ危険やで。戦局は膠着状態やろ。過激派が共生派狩りとか称してな、一部地域では怪しい闇討ちが横行してるっちゅううわさもあるくらいなんやで。二組のなぁ、遠坂くんておるやろ」
「あの坊ちゃんヅラした男か」
「うわ、なっちゃんも口わるぅ。何かなぁ、遠坂くんて共生派と関わりがあるんやないかて…うわさやけどな」
 小隊隊長室は二人だけだというのに、それでも加藤はひそめた声で話した。
「なあ、なんでそんなこと聞くん。連中とはあんま関わりあいにならん方がええて」
「幻獣には知性というものがあるんだろうか。つまり意思の疏通が可能かということだけれど。そもそも、奴らはどうして人間を攻撃してくるんだろう」
「あー、やめややめや!」
 声をはりあげて、加藤は両腕を振りまわした。肩先で切り揃えられたおかっぱの髪が勢いよく揺れる。
「それな、考え出したらキリないで。この戦争が終わるまでそういう疑問は棚上げにしとけって。死んだ平和論者よりも生き残った悪党の方がマシやて、本田先生も云うとったで」
 今朝いちばんに登校した狩谷が、授業が始まるまでのわずかな時間に、整備員詰め所のコンピューターからひき出した情報は大したものではなかったが、とあるセクトの書いた文章が不思議と印象に残った。
 曰く、幻獣とは人間の意思が具現化したものである。人類は発達した技術によって豊かな生活を享受してきたが、それは同時に深刻な環境破壊をもたらした。破壊されてゆく自然を目のあたりにしながら、人類は一度手に入れた便利さを手放せないでいる。そのジレンマの前にあらわれた存在が幻獣だ。幻獣が倒された跡には必ず緑が再生される。幻獣こそ人間の身勝手な破壊活動に対する超自然的意思の警告であり、自然環境の回復を望む我々の願いの体現者である―――。
 超自然的意思などというたわ言はさておき、最初の文句は狩谷の気に入った。『幻獣とは人間の意思が具現化したものである』。では、あれをつくり出したのはヒトの意思か。ヒトの望みをあいつが叶えてくれるのか。
 急ごしらえのプレハブの屋根に阻まれて見えはしないが、こうしている間にも銀色の幻獣が自分の頭上を漂っているのだろう。夕べのあの時から、あれが狩谷の視界から見えなくなったことなどない。それどころか、ろくに同調技能のない自分にも、あの存在の有無が知覚できるほど、一晩であれは狩谷と繋がり、心中に働きかけてくる。そこには死への恐怖も、天敵に対する嫌悪もない。人間を超える存在の圧倒的な力が感じられるだけだ。
「なんかおかしいで、なっちゃん、熱ほんまに下がったん?」
「下がったよ」
「うそ。昨日の今日で信じられへん。今日はもう帰ったほうがいいんとちがう」
「もし幻獣が自分の望みを叶えてくれるといったら、加藤ならどうする?」
 何いうてんねん、と苦笑まじりに云って、加藤は不思議そうに狩谷を見た。
「そんなこと、あるわけないやろ。叶えてくれるんやったらこんな戦争、さっさと終わらせてほしいわ」
 いずれは自分の店を持つつもりだという加藤の夢はいつか聞いたことがある。戦時下であることこそ、彼女にとって正すべき状態なのだ。
「加藤は、戦争が終わって平和になったら、まともな世の中になると思うかい」
「そらもちろん」
「でも、戦争をしていた方が都合がいいという人間だっているかも知れない」
「そんなん、ブラックマーケットの喰われへんジジイくらいやで」
 けれど、世界はもうこんなにも狂い始めている。自分のように障害を持つ人間が健常者と同等に前線にいるのは、すべてこの常軌を逸した世界がそれを望んでいるからだ。世界は狩谷からバスケットを奪い、両親を奪い、平和な日常を奪っておきながら、狩谷を望み、生き長らえさせている。ならば、命以外のすべてを失った自分があれを利用していけないことがあるものか。共生派についてはまだよく調べなければならないし、あれが具体的にどう自分に働きかけているのかはまだわからないが、失ったもののかわりにあれが自分に与えられたのならば。

「ほら、やっぱり嘘やってんか。熱まだあるやん」
 ふいに黙りこんだ狩谷を心配してか、加藤が額に触れながら云った。
「な、頼むから今日はもう帰って寝とき。何かあったら速水くんに迎えに行ってもらうし」
「平気だよ、もう大丈夫なんだ」
「大丈夫っていうたかて、なっちゃん、熱」
「加藤にはわからないかい?」
「だから何が」
 この戦争にはおそらく別の意味が隠されていることが。だがこれ以上、鞭たれるままでいてやるものか。自分が力を得れば世界の均衡はまた変わる。そうこれは、失われた地位の正当な回復なのだ。
「医務室で薬をもらってくる」
 車椅子の車輪を押して、狩谷は小隊隊長室を後にした。おそい午後の陽射しがやわらかく黄金色に景色を包み、心地よい微風が吹いている。視界のすみで、訓練のために駆け出してゆくだれかの姿が遠ざかる。
 あの青い空の中天には、銀色に輝く幻獣が自分を待っているのだ。
 天をふりあおぎ、両腕をさしのべて狩谷はふと頬をゆるめた。発熱による悪寒と、魔王のような全能感に、全身をつらぬかれながら。

 

(終)


K様よりいただきました狩谷君と加藤。


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