刺激的な日常 1


 一学年は2クラスのみ。全校生徒数は数十年来200名弱を維持し続けている、市の教育委員会までもが分校扱いするこの学校には、司書の資格を持つ職員がいたためしがない。そのため、国語の教師が図書室の管理をするのが慣例となっている。現在、国語科の教師は山瀬と藤原由比子の二人だけなので、何かと忙しい3年生のクラス担任を務める藤原から頼まれてしまったこともあり、そして山瀬自身も古い本が未だに見つかる蔵書に興味を持っていることから、彼が司書を兼任していた。

「こんなのが、まだあるんだ……」

 そう呟いた山瀬が手にしたのは古い空想科学小説傑作集の一冊で、背表紙が色褪せてはいるものの、興味を示す人間が少なかったらしく、装丁に傷みは殆ど見られない。奥付に記されている初版発行日の数字は山瀬の誕生日よりも古い。紙の端が少し黄ばんだページに記された、活字だけが持つ独特の直線的な文字で記された物語は、基本的な設定そのものさえ今の時代の常識には馴染まなくなっていて、それはむしろ古(いにしえ)の頃から伝えられている昔語りに似ている。

 科学や技術の進歩が単純に人類の世界平和と幸福につながっていると無邪気に信じられていた日々は既に遠く、この世はいつまで経っても不穏な空気で満たされていて、それがどうにもやるせない。それでも未来に続く全てが輝いていた日々が懐かしく、山瀬はしばし、古びた活字を無心で追う……つもりだったが、静寂はバカに陽気な歌声にかき消されてしまった。

 陽気で無礼な侵入者に少々腹を立てながら、けれど平静を装って、山瀬は窓の桟にかけられた手を軽くはたく。

「行儀が悪いから、生徒達が真似すると困るからやめてくださいって、何度言えばわかるんですか」

努めて冷淡に山瀬が言うと、窓の外から情けない声がする。

「そんなコワイ顔、せんでもええやんか。ホンマ、つれないなぁ、ちっこい方の山ちゃんは」

「僕だって笑顔で歓迎したいところなんですが、そうさせてくれないのは川辺さんの方でしょう。窓からじゃなくて、玄関から入ってきてくれたらお茶の一杯くらいはお出ししますよ」

悪びれるところなど微塵も感じさせない笑顔のまま、川辺は軽い身のこなしで窓の桟を越えて図書室に入ってくるのに前後して、本来の出入り口から作業服姿の若い男が二人やってきた。

「山瀬センセー、俺ら、社長のこと止めたんですよ。そんなとこから入ったら、センセーに怒られるし、やめといたほうがええて」

「ちゅーか、いつも怒られてるて妹から聞いてたし、エエ歳して窓から入んのはアレちゃいますんて、ここに来る道中にも言うててんけど、聞く耳持ってくれませんねん」

両手に安全靴をぶら下げて、中学三年生の妹を持つ河合が苦笑いを浮かべた。

「大変ですね、皆さん」

愛想の良い笑顔で山瀬が川辺興業の従業員を迎えると、川辺は不満げな声をあげる。

「センセー、俺とこいつらと、エライ、扱いちゃうやん。依怙贔屓はあかんで、教師のクセに」

「何が依怙贔屓ですか。贔屓とか以前に、一般常識の問題ですよ」

「や、センセー。あんまりキツイこと、言わんといたってください。ウチの社長、これでも案外、エエとこもありますねん」

「そうそう。社長が何かにつけてハメ外すさかい、俺らがちゃんとしゃーなとか思えるようになってるんやし、専

かて、社長の振り見て話が振り直せとか言うてるし。見た目がアレでも、俺らにはエエ社長なんです」

「なるほど。川辺さんは理想的な反面教師なんですね」

「さっすが国語のセンセーは言うこと違うわ。それ、“はんめんきょーし”。わざといらんことして、こんなんしたら怒られるて、俺らに教えてくれてますねん」

「お前ら、人のこと持ち上げるふりして、ボロカスぬかしてくれてんなぁ……」

窓の桟を止まり木にしているような姿勢でぼやく、金色の頭の若き青年実業家を慰めるつもりで、

「いいじゃないですか、川辺さん。自分の評判を省みないで若い人を指導できるのは、素晴らしいことですよ。きっと川辺さんにしかできない」

と、山瀬は言ってみた。しかし川辺は益々情けなさそうな声で

「もう、山田センセーまでそんなこと言うし……なんか最近、センセー、性格しぶとなったんちゃう?」

と、言った。

「だとしたら、きっとそれは、川辺さん達のお陰だと思いますよ」

「ホンマ、ミソもクソも一緒くたにして俺のせいにするねんから、やってられへんわ」

 がっくりと落ちてしまった川辺の肩を叩きながら、山瀬が突然の訪問の理由を問うと、川辺はやや大袈裟に作ったようなふくれっ面を満面の笑みに変え、そして河合達も一気に破顔して、“やーきにっく、バイキングーでー、たーべほーぉっだぁーい”と、独特の節回しで歌い、器用なヨーデルの合いの手まで入れてみせた。

「なんですか、それ」

「センセ、知らんの? 焼肉バイキングで食べ放題の歌やん」

「俺らの仲間内で流行ってますねん、これ」

「もう、やる気満々で食いに行きましょ」

「やっぱり男は、90分一本勝負ですよ」

「そうそう、ビールとジュースは別料金ですけど」

 大中小と揃った体格の男達は矢継ぎ早に言葉を繰り出し、山瀬は相槌を打つのが精一杯だった。

 それにしてもバイキングなどというものは、どんなにお得に見えたところで元は取れないものだというのが常識ではなかったかと、山瀬が問うよりも早く、

「というわけで、センセー。でっかい方の山ちゃんにも声かけたいねんけど……」

と、川辺が訊く。

「山田先生だったら職員室か理科準備室にいると思いますよ」

 職員室、と答えた途端に顔をしかめた若い二人の姿に山瀬が笑うと、職員室には良い思い出がある方がどうかしていると、むくれたような顔になる。その様は先刻の川辺の表情にどこか似ていて、仕事が終わってからも連れ立って出かけるのは川辺が慕われているという理由の他に、何だかんだ言って川辺興業の従業員全員が似たもの同士だからなのかもしれないと、心の中だけで呟いてから、山田を読んでくるので本でも読んでいてくれと言い残し、山瀬は図書室をあとにした。


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