深くて暗い河の岸で


 バスを降りた途端、

「山瀬せんせー!!」

と女生徒達に呼ばれ、山瀬一郎が「おはよう」と言いながら声が聞こえてきた方向を見ると、彼女らは一様に可愛らしい包みを差し出している。

「バレンタイーン! 義理は義理なりに、一番に渡そと思て待っててん」

「センセー、私なぁ、お姉ちゃんの本命手作りチョコの材料くすねて作ってんで。味わって食べてな!!」

「嬉しいやろ、なぁ、せんせい」

 無敵の季節の真っ只中に生きる女子中学生達は、5人に満たない人数であっても十分すぎるほどに賑やかで、義理とわかってはいるものの、教師として受け取るべきか否かを逡巡する暇(いとま)も与えず、有無を言わせぬ迫力で山瀬に手渡し、

「ホワイトデー、よろしくー!!」

と言い残し、中学校に続く坂道を駆け上がっていく。

 元気溌剌という言葉がセーラー服の襞スカートを翻す後ろ姿を眺めていると、

「三倍返しやで、せんせー」

と、男子生徒から声をかけられた。

「三倍返し?」

「義理には最低でも三倍返し。本命チョコには十倍返しとか、ぬかしてんねん、女ら」

「厚かましいと思わへん、せんせー? 無理から義理チョコ押しつけといて、後からお返しよこせとか言うん、脅迫ちゃうん?」

「脅迫ってことはないと思うけど……」

不満だと言わんばかりの二年生の男子の手には小さな包み。そんなことは知らず存ぜずを決め込んだらしい彼らは、懸命に平静さと不機嫌さを取り繕うとしているのが感じられる。義理でもチョコレートをもらえるのは嬉しいのだろう。気を許すと綻んでしまうだろう口角に力を入れている姿は、やはり多感な年頃の少年にふさわしい。

「とりあえず、最低でも同じくらいのお返しはすべきだな。でないと、後が恐い」

山瀬が言うと、男性生徒は不思議そうな顔で、

「なんで、そんなん知ってるん?」

と、訊いてくる。

「口うるさい姉と、生意気な妹がいるから。この時期になると毎年、失敗作の手作りチョコとか義理チョコの残りとかを押しつけてきて、似たようなこと言ってたよ。無視すると、後々まで響くんだよな、色々と」

「色々?」

「そう、色々。ありすぎて、覚えてない。というより、忘れた方がいいようなことを、家族っていう立場を生かしてやらかしてくれるんだ。君らの場合は、クラスメイトっていう状況をフル活用して報復される。断言するよ。間違いない」

「そんなん、何とでもなるんちゃうん? 相手は女やし」

今ひとつ信じがたいとでも言いたげな言葉に、山瀬が尋ねた。

「お姉さんか妹さん、いる?」

その問いに二人の男子生徒は首を横に振る。

「なら、君らはラッキーだな。少なくとも恋人ができるまで、異性に淡い夢を持っていられるんだからね」

「せんせーの姉ちゃんらて、そんなえげつないん?」

「ちゅーか、女てホンマにコワイ?」

「答は自分で、身をもって知るのが一番だから」

と、山瀬は学生服の背中を軽く叩く。何か言いたげな二人に、急ぐからと笑いかけて山瀬は早足で坂道を登る。

 ふと見れば、女生徒の荷物はいつもより一つか二つ、多いような気がした。何となく照れ臭い、華やいだ雰囲気に多少は影響されてしまっているのか、頬に当たる朝の風が心地よく感じられる。

 チョコレートと共に遣り取りされるのは、義理と人情が大多数であることは明らかで、しかも日本ではバレンタインという名称がキリスト教の殉教者が由来している事実は既に忘れ去られて、見事な程に商業主義に踊らされているだけでなく、往々にして行為の押し売りや押しつけが横行するけれど、ごく稀に存在する真実のようなものを目にする幸運に恵まれたりもする。それが例え、その年にたった一つしかなかったとしても、存在しているだけで救われるような気がする山瀬だった。

 

◇◇◇

 

 山瀬と、彼の同僚で今はまだ親友の山田一郎は居酒屋の一画のテーブルを挟み、鶏わさを肴に熱燗をゆっくりと飲んでいる。

「今日は、エライ空いてますね」

「月曜日ですけど、バレンタインだからかな」

「ああ、居酒屋よりはファミレスの方が、大分マシやもんなー」

「チョコレート系のデザートがあるだけで、気分もちがうでしょうしね」

「デカイ方の山ちゃんはともかく、山瀬センセーもわかってへんなー。鈍くさいにも程度っちゅーもんが、あるで、ホンマ」

 遅れてやってきた川辺良史は、顔なじみらしい店員に中ジョッキと刺身の盛り合わせを注文しながら、山瀬の隣に腰を下ろす。

「女がファミレスで満足すんのは、せいぜい高校生までやで? 高校出たら、もっとエエ店行くがな。車持ちの男が相手やったら、お泊まりセット持参でホテル直行コースに決まりやろ」

「べーやんは下の話ばっかりやな。もうちょっとやな、ローマンチックな発想はでけへんのかい?」

「TPOに合わせてるんや。お前がおったら味噌もクソも一緒に試験管やらビーカーの中に放り込んで終いやんけ」

「化学も生物もロマンありありやで?」

山田が同意を求めるように見ると、

「学問とか建築物とか、バレンタインのチョコレートにロマンを見つけられるのは、男だけですよ」

と、山瀬が答えた。

「例え本命のチョコレートでも、彼女らはきちんと収支が合うように計算してますよ。女性っていう生き物は、僕達男よりも遙かに現実的で、良くも悪くも意味で強かですからね」

「妙に実感こもってるけど、昔、何かあったん?」

無邪気な好奇心に瞳を輝かせた川辺が問うと、

「姉と妹がいるんですよ」

と、山瀬は溜め息をつく。

 山田と川辺は“ああ……”と、溜め息とも感嘆の声とも判じがたい返事を寄越すと、熱燗を追加注文する。

「そら、キッツイわ。家族相手やったら、容赦ないんちゃうん? 特に姉ちゃんの方」

「母親も妹も味方に引き込むんですよ、すぐに」

「そら、口では勝たれへんわな。どうせ、親父さんは不戦敗っちゅーか、最初から参戦はせーへんのやろ?」

「無口ですよ、凄く」

「無駄口叩かへんというより、口挟む隙間がないワケや」

「僕も、実家では無口です」

「生活の知恵やな」

「我が家の平穏な日常生活は、父と僕の沈黙が支えているんですよ」

 しみじみと語り合う川辺と山瀬の会話をニコニコと眺めながら、山田は乾いた杯に酒を注ぐ。

「ほな、山瀬センセーは、こっちにいてる時だけよう喋らはるんですか?」

「僕、そんなにおしゃべりですか?」

「俺らと変わらへんですよ」

言いながら山田は、同意を求めるように川辺を見た。

「まぁ、無口とかではないな」

「本の話になったら、よけいに、なぁ」

「けっこう、気ぃ、きっついし」

「やっぱし、それはお姉さんらに鍛えられてはるから」

 慰められているのかけなされているのか、それともからかわれているのか見当もつかない山田と川辺の言葉に、未だ知らない──というより知らない方が良かったかも知れない自分の姿を見せつけられた気がして、山瀬はがっくりと肩を落とす。

「まぁ、俺も会社やったら祥子(しょうこ)いてるから、あんまし喋らへんようにするもんなぁ」

だから、山瀬の気持ちはよくわかるのだと、川辺が言った。

「祥子さん?」

「専務の嫁で、俺の同級生で、中坊の時分から一緒に悪さしとってん。俺が中学出てから世話になったんが専務のおやっさんで、祥子は祭で専務に一目惚れして押し掛け女房になりよった」

「祥子さん。確か飯坂専務の嫁になるために簿記とか経理とかの免状取ったんちゃうかったっけ?」

「フォークリフトも転がすで、女だてらに」

 土建屋の女房になるために生まれてきたような人間だと川辺に言わせる飯坂祥子は、一年間にわたる果敢なアタックで、十二歳年長の飯坂を見事射止めた。その時の勢いと、その後の川辺興業の事務所での見事な采配ぶりに、今では誰もが頭が上がらないのだと川辺は溜息をつく。

「女性が強いのは、どこも一緒なんですねぇ」

「祥子は今年もチョコレートくれてんけどな、俺と専務だけは10倍返し。他の連中はお返しなしやとか言いよんねん。質の悪いことに、あの女、毎年手作りチョコレート寄越しやがって。原価計算してから10倍返しにしたら、『私の作ったんは、そんな安いもんか』て文句言うてくるし……」

「時給換算とか、あり?」

山田の問に川辺は頭を振り、

「原価計算して、ちょっと大目に見積もった時給足した分もアカン。魂がこもってないて、思いっきり言われてもーた」

と、遠い目をして答えた。

「じゃぁ、ホワイトデーが近くなったら、三人で買い物に行きましょうか」

話の流れに乗って山瀬が提案すると、山田と川辺は一も二もなく同意し、その際にはベテランのアドバイスを頼むと、山瀬に手を合わせた。実体験に基づく、経済的で効果的なアドバイスを二人から請われた山瀬は、取り敢えず曖昧な笑顔を浮かべ、この場をやり過ごすのであった。


山田君と山瀬君と川辺君でバレンタインを書こうと
2月になってから準備を始めたのですけども
完成したのはもうじきホワイトデーという時期になりました。
まぁ、こういうこともある(笑)。

バレンタインの予算達成は淑女の嗜みだと思います。


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