青葉・若葉の萌える頃
自分の足で辿る熊野古道は、想像以上に険しい。登山口にもなっている神社の辺りにいた時には、単に緑の豊かな山に分け入っていくのだという程度にしか感じられないのだが、人と獣が踏み分けてきたであろう古い道を進むほどに人里の気配は薄れていく。奥に行くほどに密度を増していくような空気は、数え切れない程の数と種類の生命を孕んでいるようで、目に見えない生命力に気圧されるかのように息苦しくなってしまう。踏みしめられた道には朽ちかけた枯葉が積もっていて、表面は乾いているように見えるのだが、うっかりと地面を踏む足の力加減を誤ると、落ち葉の下の湿った土が驚くほどの勢いで滑るため、山瀬一郎の足取りは、無意識のうちに普段よりもかなり慎重になっていた。
「山瀬センセー、いけますかー」
少し先を歩く大きな影が、逆光の中で振り返りながら言う。
「大丈夫です。すぐに追いつきますから……」
山瀬が答えると、影は大きく手を振って応えた。
「もちょっと先に、休憩できるとこがあるんで、頑張りましょー」
「一本道なら、先に行っててください。僕は山田先生よりも、歩くのが遅いですから」
「や、かまんですから。今日は俺がガイドですよって、遠慮せんと、我が儘放題言うてくれはってええんですよ。そろそろ植物もエエ感じになってきたし、この辺の群生を観察しもって、ぼちぼち行こかとか思てたとこやし」
「植物の……?」
気を抜くと切れそうになる呼吸を整えながら、山瀬が問う。学生時代にはあちこちの山を登っていたという山田一郎は多少呼吸は荒いものの、普段と変わらぬ陽気な笑顔を浮かべている。その様子に山瀬は、職場の同僚であり、かつての押し掛け親友で、今は山瀬の片恋の相手となってしまった山田を眩しく見上げた。
「もう、里山は終わり。こっからが熊野古道の……何て言うんかな……こう、本領発揮っちゅーか、外来の帰化植物も入ってきてない、日本の原生種ばっかりの、そんな環境になってるんです」
「1000年以上も前の時代の植物もあるんですか」
「厳密に言うたら、あらへんのですけどね。発芽から成長、開花、受粉、結実に至る過程を、ずーっと繰り返し続けてるっちゅうことやったら、そのへんのもん全部がそうです。ちょっと中に入ったら、昔、ここらで修業したとかいう坊さんらが摘んで帰って薬にした草とかもあるし」
「熊野の山では、役行者が修業をしたという言い伝えがありますよね」
「誰ですか? それ」
「えーと、奈良時代の……修験道の開祖というか……大和朝廷に謀反を企てたとかで母親を人質に取られたり、都を追われたりした人ですね」
「ホンマにいてたんですか、その人」
「山田先生、ご存じないんですか?」
「名前は知ってます。奈良とか和歌山とか、ちょっと山ん中入ったら、役行者の井戸とか滝とか湧き水とか、ようけあるし……けど、そんなん、弘法大師とか牛若丸とかと一緒で、昔話の中の人やとばっかり……」
「弘法大師は空海っていう、実存したお坊さんですよ? 牛若丸は源義経の子供の時の名前で……」
「ほな、べんけーとか、げんぞーほーしは……」
「どちらも、実存してます」
「したら、孫悟空とか猪八戒とか沙悟浄とか……」
「それは、後世の人達が創り出した架空の人というか、そういう……」
それから山瀬は役行者の略歴をごく簡潔に山田に話したのだが、自分よりも高い位置にある山田の顔が生真面目に頷く様子は子供のようで、山瀬の胸をあたたかくした。
山田は誰に対しても同じで、自分の知らないことを知っている人間には謙虚である。そうしなければならないと躾られたのではなく、自分の守備範囲外の分野を得意としている人物だと認めると、例え相手が小学生であっても対等の立場で一目を置く。勘が鋭く、正直な子供達は──幼稚園児も小学生も中学生も、どうにかすると、その保護者達までも──山田を慕う。誰からも親しまれている山田に対する周囲の評価は友人として、また職場の同僚としては喜ぶべきなのだが、彼を常に独占できないもどかしさは時折、山瀬の胸に去来する。
だからお互いに忙しい日常から束の間開放される5月の連休に、熊野古道へ誘われたのは山瀬にとって、この上なく喜ばしいことだったのだ。だが、山田の勧める熊野古道の散策が、山瀬にとってはちょっとした登山のようなものだったことは、誤算であったとしか言いようがない。
◇◇◇ 「センセーと一緒やったら、歴史の勉強までさせてもらえて得やなぁ」
「足手まといじゃないですか? 学生時代に得にスポーツをしたわけではない僕は、山田先生に合わせて歩けないですし……」
邪気など全くない山田の笑顔に釣られてしまったのか、山瀬はつい、うっかりと本音を口に出してしまった。
「そんなことないですよ、山瀬センセーは、エエ感じですよ、マジで。俺に荷物押しつけへんし、八つ当たりもせーへんし、しんどいからオンブせーとか言わへんし、腹減った、飯食わせとか言うたりもせーへんし、トレッキングの相方としてはバッチグーです」
「そう……ですか」
年長者が子供にする時のように、半信半疑で呟く山瀬の手を取った山田は、再び上を目指して歩き出す。その歩調は今までよりも少しだけ緩やかで、山瀬は無理をすることなく歩みを進めることができた。
かつての告白は山田の中ではもはやなかったことになっているのかもしれない。けれど歩き慣れない山道で、山歩き初心者の手を引いてくれる優しさを享受できるのであれば、二人の関係に何の進展がなくてもいいのかも知れない。そんな考えが浮かぶ程に、深い緑の中を山田と共に歩くのは気分が良かった。
「まるで歩く植物図鑑ですね」
時折立ち止まり、生い茂る草木を指さして、その名前をはじめとする解説を始める山田に山瀬が言った。すると山田はひどく恐縮した様子で
「くどいですか」
と、頭を掻く。
「感心してるだけですよ。僕は植物の名前を殆ど知りませんから」
「けど、万葉集とかの花は知ってはるでしょう」
「名前だけですよね、それは。山田先生みたいに実物を見て、すぐに名前とか花の咲く時期なんかは出てきませんから、生きた知識とは言えませんよ」
さっきのお返しとばかりに、山瀬は少し大袈裟に山田を誉めた。すると案の定、山田は照れたような、決まりが悪そうな表情を浮かべる。
「あー、あの、腹、減りませんか。飯、昼飯。俺、弁当作ってきましたから。この先に、見晴らしのええポイントがあって、そこで飯! 飯にしましょう。俺、腹減ったし」
話の腰を折るような山田の提案に山瀬が頷くと、山田は安堵の息を吐く。
「今日は、食後の甘いモンも用意してるんですよ」
「何ですか、それ」
「それは、食後のお楽しみ」
山田は“えっへら”と笑うと、軽い足取りで先を行く。山瀬は山田に手を引かれるままに、上を目指した。
◇◇◇ 山の中の道から少し外れ、崖と呼ぶにふさわしい急斜面を上りきると、奥深い山の中とは思えないなだらかな丘のような場所に出た。短い草が少しだけ生えいる、殆ど岩でできたそこからは臨む眺望は、山瀬の目を釘付けにする。
「あの向こう、海ですよね」
「和歌山港から大阪湾。左手は熊野灘で、右手の方は……今日はちょっと霞んでるから見えへんけど、淡路島とか、最高に晴れて空気が澄んでる時にはなると大橋も見えますよ」
「見たこと、ありますか?」
「淡路島は何回も。鳴門大橋がまだできてない時期に来てたりもしてたんで、俺もまだ橋はまだ見たことないけど、鳴門の方の──四国の山並みっちゅーか、向こう岸は見たことあります。冬がね、ええんです。キンキンに寒い冬の朝で、前の陽も寒うて快晴の明くる日の、日の出から数時間。それくらいが一番ええんです。お陽さんで海面とか地面とかがまだ温もってない、水蒸気があがってない時間帯。その辺が一番クリアに見渡せますね」
それから山田は冬の熊野古道の魅力を雄弁に語った。冬の空気の冷たさや、かじかんだ指を解してくれる熱いコーヒーの味や、朝日の中で、持参したコッヘルで作るカップラーメンが、この世のものとは思えない程に美味しいだとか、冬の厳しい寒さの中で春を待ちわびている、まだ堅い木々の新芽のいじらしさだとかを語り、山瀬は山田の持参した弁当に舌鼓を打ちながら、初めて触れる熊野古道の自然の物語に耳を傾ける。早朝からの山田の奮闘が窺える手作りの弁当は極上で、山田の掌の大きさを思わせる巨大なおにぎりを、山瀬は特に気に入った。
「熊野古道の、全部の季節を知ってるんですか」
「ちょっとずつ時期をずらして登ってきたんで、一応、12ヵ月分は二通りくらい知ってますよ」
「どの季節が、一番好きですか」
「今時分ですねぇ……春の一番最初に出た芽が大きなって、今年伸びてきた枝から新しい芽が出てくる今頃が、一番、ええような気ィします。下の方の、こんもりしたような、丸っこい山とかが、特大のうぐいす餅みたいで、美味そうで……」
「うぐいす餅?」
「緑色の餅の上に、薄緑の黄粉みたいなん、かかってますやん。あの色味とよう似てて美味そうでしょ。子供の時、近所のおっちゃんに初めて山に連れて行ってもろた時、やっぱり今と同じくらいの時期で、山のてっぺんから見た山がうぐいす餅そっくりで、大人になったらこれくらいデカイうぐいす餅を食べるんやと決めたんです」
言われて、指さされた方向を見下ろすと、確かに鮮やかな緑の若葉に勝る勢力で伸びる薄緑色の新芽が散りばめられたような様は、うぐいす餅のように見えないこともない。だが、もう少し違う言いようもあったろうにと、山瀬は思った。そしてはたと気が付いて、山田に尋ねた。「もしかして、食後の甘いものって……」
「もしかせんでも、うぐいす餅。千石堂の上等のを奮発しました」
そう言って山田は子供のように幸せそうな笑顔を浮かべた。
食後に勧められたうぐいす餅は、成る程、美味い。けれど山瀬にとっては手にしたうぐいす餅と目の前の風景を満足げに見比べた後、嬉しそうに新緑の山々を模したかのような餅を囓る山田の方が、遙かに魅力的だった。
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