雄弁な掌


 山田の手は大きい。190センチを超える身長に見合う大きさと厚みさは力強い印象を与え、節の目立つ指は科学者のそれというよりも、むしろ肉体労働者の印象が際だっている。けれど山田の指は見た目の印象を裏切る程に器用で、繊細に動くのを山瀬はよく知っていた。

 山田は山瀬や、共通の友人でもある川辺を住まいに招く度に手際よく酒の肴や食事を作り、もてなしてくれる。また暇を見つけては校舎の裏手の雑木林が続く裏山に分け入り、山野草を採集しては押し花を作り、採集時に撮影した写真を添え、ワープロで打ち出した植物に関する情報を添付していくのだが、その手際は実に見事で、花を見るのは嫌いではなくても、学術的なものには興味のない山瀬の興味さえも惹くような、立派な植物標本を作り上げるのだ。いつだったか山瀬が山田の作る植物標本を誉めたことがあった。しかし山田は照れくさそうな、困ったような顔で笑いながら、学生時代から標本作りが好きだっただけで、慣れているだけなのだと笑うばかりで、山瀬の言葉に取り合おうとはしない。

「そない言わはるけど、山瀬センセーの手の方が器用そうですやん」

「そんなこと、ないですよ。僕は良くも悪くも人並みでしかなくて、山田先生のように特別な技術があるわけじゃないですから」

「こういうのは訓練とか慣れとかですよって、俺にかてできてるんです。センセーやったら、ちょーっとこなすだけで、ずーっと早よう、きれいに標本作らはりますよ、絶対」

「そう言ってもらえると、お世辞だとわかってても嬉しいですよ」

「いや、お世辞とちゃいますて。俺、マジで言うてますねんて」

 慌てる山田に微笑みで応えると、山田はほうっと息を吐く。

「器用いうたら、べーやんの方ですよ、センセー」

「川辺さんは……土木工事が専門でしたよね。案外、一人で家を一軒建ててしまいそうでしょう。普段のあの勢いだと」

「いや、そっちは基礎工事とか、あと塀を造るくらいまでしかせーへんらしいです。木ぃ組んだりとか、クロス貼ったりとかは細かい作業が多いから辛気くそうてかなわんとか言うて。けど実はべーやん、編み物が得意で」

「ええっ」

 山田の言葉に、山瀬は心底驚いた。どこから見てもがらっぱちを絵に描いたような川辺が、編み物のような繊細な作業を得意とするなど、想像もできない。

「セーターとか手袋とか、むっちゃ上手いんです。俺も冬場に履く、五本指の靴下編んでもうたことありますねん」

面食らったまま言葉を失っている山瀬にお構いなく、山田が言う。

「細い毛糸できっちし編んでくれたんで、ムッチャ温うて重宝してるんですけどね。一足もろて、後から毛糸代払ろうて洗い替え、編んでもろたんです。センセーも気ぃ向いたら編んでもろたらええのに。あれで世話焼きやから、センセーが頼んだら絶対喜ぶに決まってるし」

「それにしても……どうして川辺さんは編み物なんか始めたんですか?」

山瀬が問うと、山田はニヤリと笑って手招きをする。招かれるままに山瀬が歩み寄ると、山田は内緒ですよと言って山瀬に小声で囁いた。

「アイツね、アレでたいがいなエエカッコしいで、自分で編んだもんを彼女に編んでもろたふりしてんですよ。上手に編むさかいに周りもすっかり騙されて、本人もそれをおもしろがってるっちゅーわけで」

 

 なるほど、それはそれで川辺らしいと山瀬は思った。しかし川辺はいつ、何を思って編み棒を手にしたのか。その理由が知りたかった。本人に直接問うたとしても、得意の冗談で川辺は自分を煙に巻いてしまうことだろう。

 そこまで思い、山瀬は気づいた。それなりの交流があるというのに、自分は川辺の手を覚えていない。職場の同僚である山田の手は頻繁に目にしているが、川辺の場合は彼の巧みな話術や知らずに周囲を巻き込んでしまう明るさばかりが目立ち、ふとした時の仕草をまるで知らないのだ。

 手は時として、言葉よりも雄弁にその人となりを物語ると信じている山瀬は、山田の手に安心感を覚えた。確かな根拠はない。しかし山田はその手で彼の誠実さを明らかにしている。初見では不真面目にしか見えない川辺の真実を、普段の彼のどこに見出したのかと山瀬は記憶を辿ってみた。

「ああ、そうか」

「え、どないしたんですか?」

「あ、いえ、何でもありません。ところで山田先生、お腹空きませんか?」

「そういうたら、もう、エエ時間や。センセー、『折鶴』でうどんか何か食べて帰りません?」

「いいですね。昆布うどんの定食にしようかな」

「今やったら、かやくご飯が筍ご飯になってますよ」

「じゃぁ、それにします。行きましょうか」

 『折鶴』の筍ご飯の筍が、実は店主が毎朝裏の竹藪に出かけて掘ってきているのだと山田から聞き、山瀬は改めて大阪とは思えない長閑さに安らぎを感じた。

  

 山瀬は川辺本人に会うよりも先に、彼の蔵書を手にしたことを思い出した。大切に扱われていたことがわかる丁寧な修復の跡が、本に対する持ち主の思いを表しているような気がして、山瀬は見知らぬ本の持ち主に強い親近感を覚えたのだ。川辺本人に会った時、少々面くらい、そして山瀬にしては珍しく大声で口論までしでかしたが、川辺の人間性に対しては無条件に信頼を寄せらるようにも感じた。それ故、自分は川辺の手に気をとられることがなかったのだろう。

 学校の最寄り駅の前にある『折鶴』には、山瀬達の他にも数名の客がいた。

「そういうたら、さっき、何思い出さはったんですか」

人好きのする笑顔を山田に向けられ、山瀬は何と答えようかとしばし迷った。

「山田先生と川辺先生のチャームポイント……かな」

「チャームポイント? 俺らの?」

「そうですよ。山田先生は手で、川辺さんは本の扱い方が、僕にはいいなぁと思えるんですよ」

はぁ、と、山田は間の抜けた相づちを打ってから

「センセー、もしかしたら手フェチで本フェチですか」

と、問う。

「どうかな……そんなこと、考えたこともなかったですよ」

「今まで、気ぃつけへんかっただけやったんちゃいますか」

 山瀬が山田に答えようとした時、昆布うどん定食とカツ丼セットがテーブルに運ばれてきた。食事に紛れ、山瀬は山田に伝えるつもりだった言葉を忘れてしまった。

 一瞬だけ浮かんだ短い言葉はうどんの出汁の香りに隠された。自分が何を言おうとしたのかを思い出そうとしたが叶わない。しかし山瀬はそれでもいいような気がした。

 全く根拠はないのだが、たぶんその方がいいのだと、そう思えたのだった。


司書の母校の中学の坂の下に「折鶴」といううどん屋がありました。
田舎やし、けっこうエエ加減なお店で、
うどんの汁を飲み終わった丼の底に値札シールが残ってたり、
七味の中にゴミが入ってるから、あそこの七味は十二味やとか、
いろいろと言われながらも親しまれてました。


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