想いの鮮度


 規模が市内一小さな中学校故、山瀬一郎の勤務先である中学校には学校司書はいない。放課後は、最終下校時間まで生徒達のために開放しているため、教師が図書室に詰めることになっており、本来であれば国語教師の藤原と山瀬が交代で当番を務めることになっていた。だが部活動の顧問もしておらず、一人暮らしの山瀬が、母親業で忙しい藤原に代わることが多い。藤原は放課後の仕事が山瀬のお陰で軽減されたことを喜んでくれたが、同じくらい恐縮もしていた。しかし山瀬にとって放課後の図書室は懐かしい本に再会できる貴重な場所であり、生意気盛りの生徒達との交流の場であり、そして開け放たれた窓から一人の友人が訪れる部屋でもある。

 何度、学校の職員に注意されても懲りることなく、窓を乗り越えてやってくる川辺良史にとって、学校に忍び込むのはもはや趣味に域に達しているのだろう。派手な風貌で軽い言動が目立つ川辺は社会人であり、約十名の従業員を抱える川辺興業の経営者であるが故に、彼が図書室を訪れるのは週に1度程。年末や年度末には休日返上で働かねばならない時期には訪問が間遠になるものの、特別に発行されている図書カードで借り出した本の貸し出し期間までには、必ずやってくるのだった。

 

◇◇◇

 

 最終下校時間が間近に迫り、図書室に残っているのは山瀬だけとなった。彼は最近になって始めた本の修理の手をきりのいいところで止めて、窓に向かう。さすがに今日はもう、川辺の訪問はないだろうと窓を閉めようとした時、見慣れた軽トラックが校門に続く坂道を上ってくるのが見え、その数分後、窓から陽気な声がした。

「よう、センセー。調子はどない?」

「悪くないですけど……そろそろ普通に入ってきませんか?」

靴の入ったコンビニのレジ袋を手に、窓をよじ登る川辺に山瀬が言った。

「玄関はなぁ……職員室の前を通らなアカンのがかなんねん。アソコは何年経っても、苦手やねん、俺。何か、とりあえず説教喰らいそうやからなぁ」

「窓から図書室に入ったりしなければ、誰もお説教なんかしませんよ」

「そう言うたかて、これは俺のささやかな趣味やし……」

コンビニ袋に下足を収め、携帯用スリッパに足を突っ込みながらぼやく川辺の姿を眺めながら、

「今日、生徒達がおもしろいことを言ってましたよ」

と、話題を振ると、興味津々といった顔で川辺が振り向く。

「おもろいこと?」

「今を冷凍保存できたらいいのにって、そんな話ですよ。嬉しいこととか、感動とか、そういう気持ちを何年経っても変わらないままに残しておけたら、将来、辛いことがあったりして挫けそうな時も、何とかなりそうだとか、そういう話ですよ」

「で、気持ちとか、そんなんを冷凍しとくって言うん? ガキやな、発想が」

「そうですか? 僕はなかなかのアイデアだと思いますけど」

「そこまでして残さなアカンようなもん、あるとは思わへんけどな」

親指の腹で鼻先を擦りながら、川辺が山瀬を見た。

「センセやったら、何、残したい?」

そうですね……と、小さく呟いてから山瀬が言った。

「彼女達──さっきまで残っていた生徒達が言うには、つきあい始めた時とか新婚の頃のときめきだとかを冷凍しておけば、夫婦喧嘩の時に解凍してすぐに仲直りできるとか言ってましたよ。そうしたら離婚とか、そんなのも少なくなるのにって。そんな風に使えるのなら、優しさだとかの気持ちをフリーザーの一番奥に──そう、きれいな箱に入れてしまっておくのも悪くないと、僕は思いますけど」

「けどな、センセ。冷凍モンは味が落ちるで、どうしても」

川辺は山瀬の目を正面から捉えて続ける。

「まぁ、そこそこの味にはできても、活けモンには敵わへん。ちょっとでも悪なるんやったら、その場その場で真剣勝負する方が、俺は好きやな」

「それができない時は?」

「そんなん、どないかこないかなるもんやで。ホンマに本気になったらな」

「自信家ですね」

「というより、男のささやかな意地やな。ない袖も、あるように振ってみせなアカン時もあるしな」

「例えば、それってどういう時なんですか」

何気なく山瀬が投げかけた言葉に、川辺はいつになく真剣な表情を浮かべた。考えを巡らせるように視線を泳がせてから、川辺の眼が山瀬の視線を捉える。そして川辺が何かを言おうとした時、

「二人ともー、腹減らへんかー。飯、食いに行こや、飯」

と、暢気に笑いながら山田一郎がやってきた。

「なんで、俺がいてるてわかってん」

やや剣呑な口調で川辺が問う。

「べーやんとこの軽トラ、エンジンの音に特徴ありありやからな。知らんか?」

山田はその場の微妙な雰囲気を感じ取ったのか、

「えーと……なんか、取り込み中でした?」

と、山瀬に助けを求める。

「今の気持ちを冷凍して取っておけたら、どうかという話をしてたんですよ」

「今の気持ち?」

「生徒達が優しい気持ちとか、そんなのをいつでも解凍して取り出せるようになったらいいのにっていう話をしてて、何を残したいとか、まぁ、そんな話です」

「俺は冷凍してまで残すことないと思てんや。冷凍モンは、どないしても味が落ちるやろ?」

「山田先生、どう思います?」

「どう……て、ものにもよると思うけど……ちゅーか、どっちでもええやん、そんなん」

「なんやねんな、それ」

片方の眉だけを器用に上げて、川辺が山田に言った。

「例えばやな、液体窒素で急速冷凍したらやな、人間の精子くらいの生体細胞は全く劣化せんと保存できるやろ? 短時間やったら、金魚くらいの大きさの生き物でも生きたまま冷凍できるし、理論上では人間のコールドスリープもできるわな。それやったら、鮮度とか味も落ちへんやん。あと、冷凍保存することで全然違うもんができることもあるやん。高野豆腐は普通の豆腐凍らせて水抜くから、保存性も上がるし、炊いた時に味もよう染み込んで美味なるやろ? 寒干し大根かて軽く凍らせるからエエ漬け物になるし。そういうのんはやな、水分とか繊維質の多いもんが凍った時に起きる素材の劣化をうまいこと利用してる訳で、そんなん考えたら、味の劣化にこだわるよりは、冷凍と解凍がモノに与える質の変化に注目してやな、その利点にこだわって、新しい方向性を……」

「なんで高野豆腐やら寒干したくあんの話になんねんな、そこで。つーか、山ちゃん、俺らの話、全然わかってへんやろ。ホンマにかなんわ」

大袈裟にこめかみを押さえ、川辺が山田の言葉を遮った。その理由が分からない山田は、山瀬を見る。

「独創的な発想ですよね、それ。山田先生らしくて、僕はいいと思いますよ」

「はぁ……」

 川辺は呆れた表情で溜め息を吐き、山瀬はクスクスと笑い、山田だけが状況を飲み込めないまま、落ち着かない気分で二人を代わる代わる見るばかりであった。


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