キャベツのある風景 2
チャイムの音に、山田は開いていた本を閉じる。ドアを開けると、山瀬の笑顔があった。
「お疲れさんです」
「お土産、ありますよ、甘いもの。それから、市立図書館で今度整理する本のリスト。理科関係のものが結構処分対象になっているらしくて、必要なものを連絡したら、学校まで送ってくれるそうです」
「そら、助かります。学校が小さいと予算も少ないから、なかなか専門書まで買われへんし」
山瀬を笑顔で迎え入れる山田の手に、A4サイズの紙の綴りが渡される。
「僕にはよくわからないんですけど、役に立ちそうなもの、ありますか?」
「よう見らなアレですけど、かなりくたびれてる本もそこそこあるんで、そいつと入れ替えられそうなんは、何冊かあるみたいです」
そう答えた後、山田は短い礼の言葉を述べた。すると山瀬は柔らかに破顔し、役に立てて良かったと言う。その気負いのない笑顔と姿は、山田にとって実に好ましい。
「いい匂いですね」
「ご要望のロールキャベツです。すぐに温め直しますから、ちょっと待っててください。適当に、その辺、座っててもろたら、すぐやし」
「本当に作ってくれたんですか?」
「……て、センセが食べたい言わはったんやないですか、この前。お好みもええけど、たまにはロールキャベツとか、他のん食べたいて」
「確かに言いましたけど、まさか本当に食べられるなんて思ってなくて……山田先生は、ロールキャベツも作れるんですね」
「や、ロールキャベツは多少手間はかかるけど、そんな難しいもんとちゃんですよ? ミンチ肉こねて、さっと湯がいたキャベツで巻いて、煮込むだけやし、味付けかて別に普通やし」
たかだかロールキャベツごときに過剰に反応する、普段は落ち着いている山瀬の幼い表情に、山田の心も軽くなる。料理を温め直そうとガス台に向かう自分の後を付いてくる気配がくすぐったい。肩越しに鍋の中を覗き込もうとする山瀬が、鼻をヒクヒクさせる姿はどこか滑稽でもある。
それらは全て山田にとって心地よい一つの日常となっているのだが、何故そうなっているのかを、山田は分からないままにしていた。否、知らない方がいいような気にさえ、今はなっている。
例えば有機物が発酵作用により姿や、時には分子構造さえ変化させようとする時、外気に触れさせたり急激な温度変化にさらすようなことは、決してあってはならない。例え不可避であり、不測のアクシデントが状況を左右しようとしたとしても、監視の目をそらしたりしなければ大事に至らないことを、山田は人より少し長い大学生活の中で幾度も経験していた。
フィールドワークに臨む時、山に登る時も同じだ。目的と手段を取り違えることなく、自然に謙虚になって自分の非力さを受け入れ、基本の準備を怠らず、周囲の変を見逃さずに臨機応変な対応を忘れさえしなければ、道を見失ったりはしない。最終的に想定していた結果が得られなかったとしても、再挑戦できるだけのものは手に残る。それは単独行動であっても、仲間が同行する時も同じだということを、学生時代には趣味と実益を兼ねた山登りを通じて山田は知った。
山田なりの二つの人生論は、こと恋愛においては完全な役立たずだったのだが、山瀬を相手とした場合、一般的な恋愛と比較して相当にイレギュラーな状況となる筈なので、もしかしたら通用するのではないかと、山田は考えている。
ただ流れに任せる。それだけしかできない時期というものは確かにあるのだから、無理に動く必要はない。無理や無茶は必ず歪みが生じさせ、大きな誤差の要因にさえなり得る。この先に、どのような結果が待っていようとも、自分の不用意な行動で誤差を生じせしめるようなことはしたくない。それだけが、山瀬との今後についての、山田の望みだった。
◇◇◇
湯気の立つ鍋から取り出したロールキャベツを皿に盛りつけ、その上に中華風味の五目あんをとろりとかけてから、山田は冷蔵庫で冷やしていた春雨サラダとビールを運び、先に食卓に着いている山瀬に話しかけた。
「ええ塩梅にできてますよ」
山田がテーブルにロールキャベツの皿を置くと、山瀬は満面の笑みを浮かべる。
「冷めんうちに食べてください。アツアツが美味いんです、アツアツが」
「はい、じゃ、遠慮なく、いただきます」
きちんと掌を合わせてから、山瀬が柔らかく煮込まれたキャベツに箸を入れた。
「あ、美味しい」
ロールキャベツを食べた山瀬が、反射的に呟いた言葉に山田の気持ちがほころぶ。
「中華風のロールキャベツって、初めて食べました。母や姉が作るのは洋風の、ケチャップがかけてあるのばかりなんです」
「ミネストローネで煮込んだり、薄味の出汁で炊いてもあっさりしてますよ。生姜で風味を付けたあんかけにしたりとか、牛肉を使ってビーフシチュー風とか……」
「そんなにバリエーションがある料理なんですか? ロールキャベツって」
「や、昔々、俺が暇に飽かして色々作ってた時期があって、他にも思いついたもんをアホ程作ったりしてたんです」
「色々な組み合わせでサンプリングをして、美味しかったものをレパートリーにしたんですね?」
「何で、わかるんです?」
「山田先生は、実験が好きだから。それから、観察とか考察も好きでしょ? いつだったか、子供の頃、ホットプレートで何ができるか色々試したって、話してくれたじゃないですか」
話したことを、本人さえ忘れていた話を、山瀬が覚えてくれていたことに、山田は驚いた。
「僕は料理をそんな風に考えたことがなかったし、それに父と僕は家の台所に入る余地もなかったから、凄いと思ったんですよ。僕だったらきっと、いつも食べているのと似たものができたら満足するというか、それ以上のことって考えつかないっていうか……」
「そんな、たいしたもんとちゃうんです。子供で、暇やっただけで……」
「僕だったら、暇な時間に遊んだと思いますよ」
「お袋と俺しか家にいてなかったから、飯の支度はしゃーことなしにせなアカンかったんです。それだけですって」
「料理が好きな気持ちと好奇心が強かったんですよ。それから山田先生が孝行息子だってことも関係があるでしょうけど」
「ホンマに、そんなたいしたこととちゃいますねんて……」
「先生にはたいしたことがなかったとしても、僕から見れば凄いことなんだから、いいじゃないですか。それに僕は、先生のそういうところ、好きですから」
こういう大切な、そして微妙なことを何食わぬ顔で、さらりと言った後、素知らぬふりでロールキャベツをおかわりした山瀬は、中華スープの染み込んだキャベツに巻き込んだ肉を、笑いながら平らげていく。食卓を挟み、その姿を眺めている山田は、今度作るロールキャベツは、山瀬の実家で作られているという洋風のものにすると決めた。山瀬にとって懐かしい家庭の、けれど初めて食べるであろう味を山瀬が、一体どう評価するのかを想像するのは楽しい。子供の頃、初めて作った自信作の料理を食卓に乗せて母の帰りを待っていた時と同じように、しかしそれ以上に心ときめく何かを感じながら、山田もロールキャベツを堪能した。
山田一郎君を中心にしたお話を書くことにした……
のはいいのですが、
この人はとても書きにくい人だというのを忘れてて、
けっこう往生してしまいました(アホなんです)。たまに山瀬君は山田君を押し倒せばいいのにと思いますが、
体格の差が大きすぎて、押し倒すのが大儀やろうとも思います。
だからしばらくは、餌付けされながら山田君を釣るタイミングを
虎視眈々と狙っているやらいないやら……。HOME オリジナル創作 彼らの隠れ家