続・掌(たなごころ)
「今晩も、風呂に行きそこねた」
飛葉が落胆した様子で言う。短い沈黙の後、世界が言葉を継いだ。
「もう、1週間か」
「臭うかな?」
飛葉が自分の袖や肩の辺りに鼻を寄せる。
「こっちは病み上がりだってのによ。悪党どもも、少しくらい気をきかせてくれりゃいいのにな」
「馬鹿を言うな。それより、風呂を使ってから帰るといい」
世界の言葉に、飛葉は顔をほころばせる。
「悪りぃな、いつも」
「気にするな」
◇◇◇ 「ひゃー、すっきり、すっきり。世界、上がったぜ」
飛葉が上機嫌で風呂から出てきたのを見て、世界が呆れた顔をする。
「飛葉……滴の垂れるような頭で出てくるな。また熱を出すぞ」
世界は飛葉の頭に乾いたタオルを乗せ、少々乱暴な様子で髪を拭き始めた。
「夏場ならともかく、冬くらいはちゃんとしろ」
「んー、めんどくせぇ……」
タオルを被せたままの飛葉の頭を、世界が軽く拳で叩く。
「そんなだから、インフルエンザなんて、ご大層なものに罹るんだ」
世界は飛葉にヘアドライヤーを手渡し、
「俺が出るまでに、乾かしておけ」
と言い残し、風呂場に消えた。
高熱で動けなかったとはいえ、3日ほど、世界につきっきりで看病させてしまうことになったこともあり、飛葉は世界の言いつけ通りに熱風で髪を乾かすことにした。ふと部屋の中を見回すと、最低限のものしかない、殺風景なはずの部屋が幾分散らかっていることに気付く。ざっとではあるが、髪が乾いたのを指先で確かめ、飛葉は汚れたコーヒーカップと灰皿を持って流しにの前に立つ。そこには汚れたままの食器が放り込まれている。
「うわ……全部使っちまってんな、こりゃ」
飛葉はそう呟くと、汚れ物を片づけ始めた。
すっかりひからびてしまった汚れは簡単には落ちない。それは世界が長く、この部屋に戻れなかったことを示しているかのようだ。スポンジを持つ手に力が入る。この数日間にかけてしまった世話に対する感謝と、その恩返しの気持ちを込めて食器を全部洗ってしまうと、茶の用意をした。電気ポットを水で満たしてスイッチを入れ、湯飲みに茶葉を直接放り込む。湯冷めすることを心配した世界に、今夜は泊まるようにと言われているので、布団も敷いておく。
「汚れ物を片づけてくれたのか」
風呂を終え、世界が部屋に戻ってきた。
「あんた、食器とか全部使っちまってて、あのままじゃ、茶、飲めねぇからな」
「すまんな」
「いいよ、礼なんか。髪の毛、乾かしてやろうか?」
病み上がりだというのに布団を敷いたり、食器を洗ったりするばかりか、世界の髪を乾かそうとまで言い出すのは、飛葉なりの数日間の看病に対する礼なのだろうと、世界は思う。愛想のない口振りと、照れ隠しとも取れるぶっきらぼうな態度も、そう考えれば可愛いものだ。
飛葉に髪を乾かしてもらいながら、世界は飛葉の律儀さに知らず頬が弛んでしまう。
「何、笑ってんだよ」
「いや……。張り切りすぎて、倒れるなよ」
「大丈夫だって、言ってんだろ。余計な心配ばっかりしてると、老けるぜ」
世界は飛葉の手からドライヤーを取りあげ、その身体を引き寄せると、憎まれ口ばかり叩いている唇をふさぐ。不意の口づけに一瞬だけ、飛葉の身体に微かな緊張が走ったが、それもすぐに解かれてしまい、甘えるように世界の背に体重を預けだす。
「すっかり、熱も下がったな」
長い口づけから飛葉を解放した世界が言う。
「変なこと、言ってんじゃねーよ。バカ野郎」
飛葉が世界のうなじに鼻先をこすりつけながら、つぶやく。次いで、耳の後ろに唇を寄せる。世界は黙ったまま、飛葉の指が己の指に絡められるままにしていた。
「飛葉。もう、しまいにしろ」
と、世界が飛葉を制した。
「なんで」
「まだ、本調子じゃないだろう」
「治った」
「馬鹿言え。まだ治ってない」
「治ったって」
「もうしばらく、おとなしくしてろ」
「治ったって、言ってんだろ?」
「子どもみたいな駄々をこねるな」
世界の言葉に飛葉は、絡めた指が離れぬように指先に力を入れ、世界の正面に回る。そして自分を子ども扱いばかりしている恋人に口づけた。
「熱、ねぇだろ? もう、大丈夫だって」
世界の一瞬の逡巡に気付いた飛葉が、挑発するかのような視線で世界を見据える。そして
「心配ばっかしてねぇで、確かめろよ」
と世界の耳元で囁きながら、身体を寄せてくる。
「また、熱が出ても知らんぞ」
そう言って世界が飛葉の身体を引き寄せると、飛葉は甘えるような声をこぼした。
◇◇◇ 熱を帯びた肢体を持て余すかのように、飛葉は荒い呼吸を繰り返す。それは数日前に飛葉の全身を苛んでいた病によるものとは明らかに異なる、甘さを含んでいた。世界は飛葉の身体に無理をさせないよう、慎重にしなやかな肌を辿る。筋肉の流れが変わる境界を確かめるように丹念に触れる度、飛葉は甘い吐息を洩らしながら縋りつく。その仕草に世界は、組み敷いた飛葉の身体が完全に復調していることを知る。
慈しむかのような緩やかな動きで抱かれ、飛葉は焦燥めいた感覚を覚えずにはいられない。つい、この間まで伏せっていた飛葉を気遣ってのことだということはわかっている。けれど強く世界を求める衝動を抑えることもできず、ただ世界の身体にしがみつくことで、身体と精神の両方を焼き尽くすような熱を伝えるしか術がなかった。
「何だ……」
名を呼ばれ、世界が飛葉の耳に吐息を絡めるように問いかけた。その途端、飛葉の全身に緊張が走る。
「飛葉……?」
首筋にかかる囁きは、飛葉から思考と言葉を奪い去り、快楽の火種を吹き込んでゆく。荒い息のために開かれたままになり、乾いた唇では満足に言葉を紡ぐこともできず、飛葉はともすると閉じてしまいそうな瞼を上げ、残酷で優しい男の顔を見上げる。
焦燥と快楽、その身を焼き焦がすほどの熱を持つ欲望を訴えるかのように、飛葉に見つめられた世界の心中に複雑な思いが広がる。飛葉に求めるままに全てを与えてしまえば、再び彼が病魔に囚われるほどに無理をさせるのではないか。だからといって、その身を気遣いながら抱くほうが、若い飛葉にとっては残酷な行為だと言えなくもない。そして、そのどちらを選んだとしても、罪悪感めいたものを感じてしまうであろうことを、世界自身が充分に承知していた。そして、そのことに罪悪感以外の感情を、僅かばかり抱いていることも――。
◇◇◇ 身も心も解放し、弛緩した四肢を世界に預けている飛葉に、世界が囁く。
「飛葉……大丈夫か?」
世界の問いに答える代わりに、飛葉が顔を寄せる。
その甘えるような仕草に、世界の良心が少しばかり痛む。
限界に達しようとする飛葉の意識を手繰り寄せ、ほんの少しばかりの正気を取り戻させた瞬間に全身に帯びる、凄烈な炎のような熱を見たさに、無理をさせたかもしれない。そのことに感じる微かな罪の意識を悟られぬよう、世界はゆったりとした動作で飛葉の髪を梳いてやった。飛葉は安心したように瞼を閉じたまま、
「もうちょっとだけ……そうしててくれよ」
と、呟く。
「お前が眠るまで、続けてやるよ」
世界の言葉を聞いた飛葉は嬉しそうに微笑み、ゆっくりと眠りの中に落ちていった。
自業自得な飛葉と、ちょっといけずなオヤジでした。
可愛いもんやから、つい虐めたくなったんでしょう(笑)。
飛葉に被害者意識がないから問題ないけども、
ちょっとだけ良心が痛むオヤジ。
謝る代わりに飛葉の頭を撫でる〜(笑)。
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