夜の訪問者
熟睡していた飛葉は、部屋のドアを叩く音に目を覚ました。枕元の目覚まし時計の針が、既に日付が変わっていることを示している。飛葉は眠い目を擦りながらはた迷惑な訪問者を迎えるべく、脱ぎ散らかした靴で半ばいっぱいになっている三和土に降り立つ。
「どこのどいつだぁ? こんな時間に人をたたき起こす大馬鹿野郎は……」
憎まれ口を三和土ながら飛葉がドアを開けると、そこには世界が立っていた。
「すまん。寝てたのか」
「まぁな。上がれよ。外、寒かったろ」
飛葉は部屋の中に吹き込んだ冬の夜気に身体を振るわせると、世界のために身体をずらした。
「八百と飲んでたんだろ?」
少し身を屈めて靴を脱ぐ世界に飛葉が声をかけたが、返事はない。
「世界?」
飛葉が世界の顔をのぞき込むと、微かな酒の臭いがした。
「酔ってンのか?」
飛葉はそう言いながら、世界の返事を待たずにコップを水で満たす。
「飲めよ」
コップを差し出した飛葉の手を取った世界が、飛葉の身体を引き寄せて唇を重ねる。突然の貪るような口づけに驚いた飛葉は、無意識のうちに身体を引こうとしたが、世界はその抵抗を阻むように流し台の上に飛葉の身体を押さえ込んだ。
突然の出来事に飛葉は動転していた。だが深く激しい口づけに翻弄されるにつれ、身体の芯が次第に熱を持ち始めるのを止めることができない。寝間着代わりのトレーナーをかいくぐり、冬の夜気のために冷えた世界の掌が肌に触れた途端、飛葉の身体が激しく震えた。身体の熱を確かめるように、そして甘い疼きを煽るような動きに身体の自由を奪われた飛葉の手からコップが滑り落ち、光を反射する破片が床のリノリウムの上で四散する。
「……コップ……割れ……ちまった……」
ガラスが砕ける音に唇が離れる。乱れた呼吸を抑えながら、飛葉が途切れがちに呟く。
「片づけないと……」
「明日にしろ……」
世界は飛葉の首筋に唇を這わせながら囁くと、既に力を失ってしまっている身体を抱き上げた。
女子供のように横抱きにされたことに、飛葉は抵抗を試みようとしたが叶わず、結局は世界の頸に両腕を回し、首筋に吐息がかかる度に背筋を這い上がる甘美な震えに耐えるほかなかった。飛葉を抱き上げたまま奥の和室に移った世界は、微かなぬくもりの残る寝具に飛葉を慎重に降ろす。
布団に両手をついた世界は、仰向けに横たわる飛葉を無言のまま見下ろしている。自身を見つめる瞳の熱に耐えきれなくなった飛葉は両手を差し出し、非常識きわまりない、けれど誰よりも愛しい訪問者を迎え入れた。
◇◇◇ 常ならば飛葉の身体を傷つけぬよう慎重に肌を重ねる世界だったが、この夜は飛葉が戸惑うほどに性急だった。飛葉の敏感な箇所を選んで施される愛撫は甘く激しく精神と肉体を翻弄する。飛葉が肌で知っている世界はいつも、彼を焦らすのを楽しんでいるようなふしさえ感じられるほど、ゆっくりと飛葉の心と体を快楽に浸し、ともすると飛葉は羞恥を堪えて世界を求めなければならなくなるほどだった。しかし今夜の世界は次々に身体の奥深くに隠されている欲望を暴こうとするため、飛葉は絶え間なく訪れる官能の波に身体を委ねるほかない。
世界の背に、頸にすがりつき、精神を焼き尽くすほどに激しい波に耐えていた飛葉の全身に、予想外の重量が突然にかかり、飛葉の意識が急速に現に引き戻される。快楽の余韻の中に半ばあった意で識は、なかなか事態を把握することができなかった。だがしばらくすると完全に覚醒し、世界の身体から完全に力が抜けていることに気づいた。
「おい……世界?」
飛葉の首筋に顔を埋めたまま動かない世界に声をかけてみたが、世界はぴくりとも動かない。
「世界。おい、世界。寝ちまったのかよ」
心持ち声を大きくし、背中を軽く叩いてみたが反応はなく、耳をそばだててみると世界は安らかな寝息を立てている。
思いがけぬ事態に飛葉はしばし言葉を失っていたが、じきに世界の目を覚まさぬように静かに布団から這い出た。それからいくらか乱れた世界の衣服を整えると、規則正しい呼吸を繰り返して眠る男の顔を見ながら溜息をつく。
「中途半端なこと、しやがって……だから俺は、酔っぱらいが嫌いなんだ」
飛葉は小さな声で憎まれ口をたたき、そここに散らばる衣服を抱えて隣の台所に移った。
◇◇◇ 体内にわだかまる熱を掃き出すため、飛葉は懸命になっていた。隣で寝ている世界の眠りを妨げないように注意してはいても、身体はついさっきまで飛葉を翻弄していた感覚を思い起こして過敏に反応する。飛葉は足を投げ出し、背を壁に預けた姿勢のまま唇を噛み、本能が求めるままに己の身体を慰めていた。
僅かに乱れた呼吸を鎮めるように、飛葉は深い息をついた。それから身支度を整え、台所の隅に立てかけてあった箒と雑巾で飛び散ったままになっている割れたコップと水の後始末をする。ガラスの破片を静かに紙袋に収めた飛葉は
「寝てるとこをたたき起こされた挙げ句がこれじゃ、情けなくて泣けてくるぜ」
と呟き、手で拾うことのできない破片を三和土に掃き出した。
和室に戻ると、今夜の騒ぎの根元となった男は天下泰平といった案配で熟睡している。飛葉は再び眠るために世界の身体を押しやると、世界が寝返りを打ちながらその腕の中に飛葉の身体を収めた。飛葉は息を殺して世界の様子をうかがい、世界が目覚める気配のないことを確かめると、大きな欠伸を一つして瞼を閉じた。
◇◇◇ 飛葉は部屋の隅にちゃぶ台を出し、まだ熱いゆで卵とインスタントコーヒーの朝食を摂っていた。寝不足というほどではないが、よく眠ったとも言い難いコンディションだということもあってか、どうにも機嫌が悪くなってしまい、本人もそれを十分に自覚している。そんなことも知らずに眠っている世界を目を遣ると、どうにも情けない気分がこみ上げてしまう。これではまるで、誰にもかまってもらえなくて拗ねている子供のようだだとか、いい加減に臍を曲げるのはやめようと考えはするのだが、感情と思考は別の場所に存在するらしく、やり切れなさや怒りが入り混じった感情を制御することはできなかった。
飛葉が2杯目のコーヒーを飲んでいる時、世界が目を覚ました。身を起こし、ゆっくりと周囲を見渡している世界は状況を把握できないのか、腑に落ちないとでも言いたげな表情を浮かべている。
「昨夜、あんたが転がり込んできたんだよ。こっちは寝てたってのによ、いい迷惑だぜ、まったく」
飛葉が不機嫌さを隠そうともせずに言う。
「あんたもいい歳なんだからよ。ワケわかんなくなるまで飲むなよ、みっともねー」
布団を簡単に隅に寄せた世界がちゃぶ台のそばに寄ると、飛葉は何も言わずに台所に行く。マグカップを持って戻ってきた飛葉は
「自分でやれ。それと、ゆで卵も食え」
と言ってカップをちゃぶ台に置き、コーヒーをすすり始める。
世界は飛葉の言葉通りにコーヒーとゆで卵の朝食を食べ始めた。そして飛葉の様子をうかがうように
「飛葉。もしかして、お前に何かしたのか?」
と尋ねた。飛葉は世界のほうを見ることなく、
「なんにもしてねーよ」
と、無愛想に答えた。
酔った勢いで夜這いに行ったものの、
酔いに負けて寝てしまうオヤジ。
中途半端な状態で放り出された飛葉が、何とも哀れですね(笑)。
この後、拗ねた飛葉の御機嫌をとるために
オヤジはせっせと餌付けをするのよ。
今回だけは、キスも逆効果になるやろからね(笑)。実は一時期、自家発電シリーズに凝ってました。
私、これを読んだ時、「おやじ、腹上死か?!!」とビビリました。
(ももきち)