早春賦―番外編―
ドアを後ろ手に閉めて鍵をかけた後、世界は彼の肩にぶら下がるようにして立っている飛葉を、少々乱暴に玄関先に降ろした。不意に与えられたコンクリートの衝撃に飛葉が抗議の声を上げるが、世界は聞こえない素振りで部屋に上がる。そして押入からシーツが掛けられたままの敷き布団を出し、放り出したままにしてあった掛け布団と毛布で手早く寝仕度を整えると、再び玄関先に戻り、
「飛葉、こんなところで寝るな。布団で寝ろ」
と、コンクリートの三和土に座り込んだまま、うつらうつらと船を漕ぎ始めた飛葉に声をかける。
任務を終え、世界の部屋で仮眠をとった後、二人は寿司屋に出かけて少々遅い夕食を共にした。世界の制止も聞かずに酒を飲ませろと、飛葉は子どものようにだだをこねた。そんな彼を見かねた老店主の好意で出された梅酒の炭酸割りに――世界にとってジュースのように薄く、とても酒と呼べるシロモノではなかったにもかかわらず――飛葉はすっかり酔っぱらってしまい、食事の途中でカウンターに突っ伏して眠り込んでしまったのだ。自力で歩けるとは思えない、危うい足下の飛葉に肩を貸し、どうにか部屋にたどり着きはしたものの、飛葉のアルコールに対する耐性のなさに、世界はすっかり呆れてしまっていた。
「おい、酔っぱらい。こっちへ来い」
世界は飛葉を引きずるようにして部屋へと引き入れる。世界は飛葉を寝かしつけようとするのだが、アルコールによる睡魔が幾分晴れ、陽気な気分のほうが勝ってきた飛葉は世界に逆らうような仕草で、その逞しい体躯にしなだれかかり、何事かを呟きながら笑ってばかりだ。
「ああ、もうわかったから、早く寝てしまえ」
という呆れ果てたような世界の言葉に、飛葉は突然、真面目な表情になる。そして世界の両肩に手を置き、
「なにおー。あんたぁ、何もわかってねーくせによー」
などと言い始める。
「いっつも年上ぶってるくせによー、ホントはなんにもわかってねーぞー」
世界は、突然絡み始めた飛葉をあやすように、
「ああ、わかった。わかった。だから、もう寝ろ」
と言いながら、何とかして布団に寝かしつけようとするのだが、飛葉は
「なーにがわかったってんだよ。言ってみろよー、世界」
と、据わった目で世界に迫る。既にまともに返事をする気も失せてしまった世界は、薄い困惑の表情を浮かべたまま、黙って飛葉の顔を見た。
「な、言えねーだろぉ。あんた、わかってねーもん。言えるわけ、ないんだよなぁ」
「じゃ、俺がわかってないことを言ってみろ、飛葉」
しばらく相手をすれば、その内に眠るだろうと考えた世界は、飛葉の言葉尻をとらえて言った。世界のその言葉に、明瞭とは言えない口調で飛葉がまくしたてる。
「あんたはぁ、俺があんたのこと、好きだって全然わかってねーよ。でー、俺があんたのこと好きなのにぃ、好きだって言えなくて困ってんのも知らねーんだ。俺がぁ、俺よりぃ、あんたのことが好きだってこともぉ、あんた絶対わかってなくてよー。いつだって仏頂面してばっかでよー、んで俺が困ってんの見てるだけでよー。俺のこと、ガキ扱いして喜んでばっかなんだよ、あんたはぁー。ちょっと年上だからって、わかったような顔してんだけどー、ホントはわかってないってぇー。おーい、世界ぃ、聞いてるかぁー。知らなかっただろぉー」
突然の飛葉の告白に驚き、言葉を失ってしまっているかのような世界に飛葉は苛立ちを感じたのか、更に世界に食って掛かる。
「よぉー、なんとか言えよー。世界。あんた、知ってた? 俺があんたのこと好きだって、すんげぇー好きだって知らなかっただろう?」
自分に対する思慕の情を『好きだ』という言葉で、飛葉から告げられたことはなかった。恋や愛といったものに慣れていないであろう、また極度に照れ屋で不器用な彼の恋人から、愛の言葉を引き出すことなどできはしないだろうと思い込んでいた世界は驚きを感じると同時に、飛葉の言葉の一つ一つが心地良い熱となって胸に染み渡るのを感じていた。
「今、わかった」
僅かばかり掠れた声で、世界が飛葉に言った。飛葉に返した短い言葉の中には到底収めることができない様々な思いを伝えるために、世界は飛葉の背中に手を回そうとしたのだが、アルコールが回っている飛葉にとってそれは、むずがる子どもをあやすかのような行動にとれたのか、ひどく不機嫌な動作で世界の手を勢い良く振りほどいた。そして
「俺はガキじゃねーぞ。そんなことすんな!!」
と言うと、いきなり世界の首に両手を回して引き寄せ、強引に唇を重ねた。突然の出来事に言葉も出ない恋人の惚けた表情に、飛葉は満足そうな笑い声をこぼし、再び世界に口づけ、先刻よりも更に深く世界を求める。
触れるだけの口づけにさえ頬を染めてしまう、普段の飛葉からは考えられないその行動に、世界は驚きを隠せなかった。それどころか、その強い欲求に戸惑いさえ感じてしまっている。だが明確な意思を持った強気の態度の中に、飛葉が裡に秘めてきた心情の全てを認めた世界は、至福の念さえも感じていた。豊かな感情を余すことなく伝える瞳の色に、不器用な言葉や仕草の中に見え隠れする、飛葉の身内に息づいている柔らかな感情を知っていたつもりではあった。けれど、その唇から紡ぎ出された言葉ほどに確かな形ではない。だがこの夜に、簡潔な言葉で、唇を求めることで、飛葉は彼自身にとって世界が特別な存在であることを伝えようとする。その切ないほどに真摯な思いは、世界の全身を甘やかな充足感で満たしていく。
ようやく唇が離れた時、飛葉の息は心持ち上がり、その瞳は微かに潤んでいた。世界が飛葉の頬にそっと指先で触れると、上気した頬に更に赤みが射す。世界はその腕の中に飛葉を抱き入れようとしたのだが、それよりも一瞬だけ早く飛葉が世界の肩に手をかけ、その逞しい体躯を寝具の上に押し倒した。全く予想外の出来事に半ば呆然としている世界を、飛葉が陶然とした表情で見下ろしている。そうして世界は、この場の主導権を握っているのは自分ではなく、アルコールの力で理性のタガが外れた飛葉であることを悟った。
◇◇◇ 飛葉の唇が肌を辿り、その指が鍛えられた筋肉を愛しむように動くのを世界は感じていた。飛葉は世界と視線が絡む度、口づけを求める。飛葉のしなやかな肢体と、その肌の感触を確かめるように世界がその手を伸ばすと、飛葉はこの上なく甘い息を吐く。少年の危うさが僅かに残る飛葉の身体は、初めて肌を重ねた時から敏感だったが、今夜は常よりも感覚が鋭くなっているらしく、微かな動きにも鮮やかに反応し、甘い吐息を惜しげもなく漏らす。囁くような、吐息のような声がこぼれる瞬間、飛葉は凄烈な色香をその身に纏う。
求められるままに、世界はすべてを飛葉に委ねていた。けれど飛葉がその体内に彼を導き入れようとした瞬間だけはそれを許さない。焦れる飛葉を宥めるように指先での愛撫をほどこす。甘い蜜に誘われた蜜蜂が、そろそろと花びらを分け入り進むように、雨の滴が大地の深いところを目指すように、世界はゆっくりと飛葉の身体を侵食していった。
飛葉がその身体を揺らす度、世界の全身に甘やかな感覚が広がる。共に登り詰めようとする飛葉の面に、薄い汗と歓喜を讃えた表情が浮かんでいるのを認めた世界は身を起こし、飛葉の身体を抱く腕に力を込め、愛しい者に持てる限りの情熱と恋慕の情を注ぎ込む。飛葉は世界の背を硬く抱きしめながら、快楽の溜息と共に求めてやまない恋人を幾度も呼んだ。
◇◇◇ その両腕を緩やかに世界の背に回し、目を閉じている飛葉の頬には先刻まで二人を包んでいた熱の余韻が残っている。世界はできるだけ静かに飛葉を抱き寄せて、その耳元で囁いた。
「もう一度、言ってくれ」
ゆっくりと瞼を上げた飛葉は、その言葉の意味を図りかねたように彼を慈しむ恋人と視線を絡める。世界は包み込むような微笑みを浮かべ、更に言葉を重ねた。
「もう一度、教えてくれ。俺が忘れたりしないように……」
飛葉は世界に対する思いを讃えた笑みを浮かべ、その心情を言葉に紡ぐ。
「あんたが好きだ。一番。俺より好きだ。他の誰よりも……」
愛の言葉をつぶやきながら、飛葉は世界の腕の中で深く幸福な眠りに落ちていく。消え入るような囁きが、やがて安らかな呼吸へと変化するのを見守りながら、世界もまた柔らかな眠りに意識を預けた。
◇◇◇ うららかな、春を思わせる太陽が部屋の中に射し込んでいる。眩しい陽射しとコーヒーの香りで目を覚ました飛葉に、世界が声をかけた。
「起きたのか」
寝ぼけ眼の飛葉が身を起こした途端、その身体から毛布と掛け布団が滑り落ちたため、彼は何一つ身につけていないことに気付いた。全身に色濃く残る気怠さは昨夜の情事の激しさを示しているかのようだ。飛葉は世界に
「世界っ!!あんた、俺に何したんだ!!」
と、怒気と戸惑いと羞恥を帯びた声で問う。その言葉に世界は、さも心外だと言わんばかりに答えた。
「おい、間違えるな。俺は何もしてないぞ。昨夜はお前が、俺を押し倒したんだ」
その言葉に飛葉は言葉を失い、右手を口に当て、記憶の糸を辿ろうとしている。そんな様子を世界は、煙草を燻らしながら楽しげに眺めていた。しばらくすると飛葉の頬はみるみる紅潮し、更にうなじにまで朱が走る。世界は予想していた通りの飛葉の反応に、俯いて笑い声をかみ殺す。世界の震える肩を見た飛葉は、世界に枕を投げつけた。
「ちくしょー!! 何、笑ってやがる!!」
「飲むなと言ったのに、酒を飲みたがったのはお前じゃないか。自業自得ってもんだ。違うか?」
返す言葉に窮した飛葉は、頭から布団を被ってふて寝を決め込んだようだ。世界は掛け布団の上から飛葉の身体を軽く叩き
「飛葉。酒を飲むなとは言わんが、飲むなら俺の前だけにしろ」
と言ったが、飛葉は身を固くしたまま何も答えない。
「飛葉、わかったな」
世界が念を押す言葉に、飛葉が蚊の鳴くような声で
「わかった」
と返した。
世界は短くなった煙草を灰皿に押し付けると
「おい、俺が湯を沸かしてる間に服を着て、布団をしまっておけよ」
と、布団の中で身体を丸めている飛葉に笑みを多分に含んだ声をかけて立ち上がる。その気配にようやく、飛葉は布団の中へ衣服を引っ張り込む。押入が閉められる音を合図に世界が部屋に戻り、茶葉と湯の入った湯飲みと、寿司屋の老店主が持たせてくれた折り箱を飛葉に手渡した。飛葉はその包みを手にしたまま、問うように世界を見つめる。
「おやじの女将さんが作ったおはぎだとよ。心して食え」
それを聞いた飛葉は目を輝かせて折り箱の蓋を取り、艶やかな小豆餡にくるまれた餅を頬張り始める。その子どものような表情を眺めながら、世界は新しい煙草に火を点けた。
適度に酔っぱらい、正直者になった飛葉でした。
オヤジ、ビックリしたけど嬉しかったやろな。
まぁな、たまにやから喜びも倍増ということで(笑)。
ちなみに、この作品も煩悩メールの産物だったりします。