甘くて辛い夜
ある日の午後遅く、上等のすき焼き用の牛肉を1キロ買った飛葉は、世界のアパートに向かった。ドアを軽く叩くと、中から部屋の主が顔を出し、
「なんだ、お前か。飛葉」
と、微笑む。
「ご挨拶だな。おい、世界。いい肉があるんだ。すき焼き、食おうぜ」
「すき焼き? うどんすきの間違いじゃないのか」
からかうように笑う世界に飛葉は
「今日は正真正銘の牛肉だぜ。上物だからよ、すき焼きだ。1キロもあんだぜ。どうせ、あんたんちには電気コンロもなけりゃ鍋もねぇだろ? 俺ン家行こうぜ。で、その途中でネギとか買うんだ。早く用意しろよ。肉が傷んじまうじゃねーか」
と、外出をせかすように矢継ぎ早に世界に話しかける。世界は飛葉の言葉の途中で部屋の奥に消え、戻った時には上着と小振りの紙袋を手にしていた。
世界の部屋からまず商店街に向かい、二人は八百屋の店先で立ち止まった。
「ネギと白菜……あ、白菜は半分に切ってるやつにしてくれよ。んで春菊と生椎茸、えのき茸ももらおう」
店主は野菜を手際よく新聞紙にくるみ、飛葉が用意していたと見えるスポーツバッグに入れる。それを飛葉はさも当然のように世界に手渡し、
「次は豆腐屋」
と言った。
豆腐屋で焼き豆腐を1丁と糸こんにゃくを買い、乾物屋で焼麩を一袋買った飛葉が世界に
「よし、これで材料は揃ったな」
と話しかけた。すると世界は驚いた表情を浮かべ、
「うどんがまだだ」
と答えた。
「うどん? なんで、そんなもんをすき焼きに入れるんだよ」
「すき焼きの最後はうどんでしめるもんだろう」
「俺ぁ、聞いたことないぜ、そんな話。すき焼きの残りは次の朝、ちょっとばっかり出汁を足して牛丼にして食うんだよ」
「飯にぶっかけるだと? そんな品のない食い方は知らんな」
「俺だって、すき焼きにうどんを入れるなんて初耳だ。あ、正月の残り物の餅だったら入れたりするかな……」
「餅だと? そんなもの、柔らかくなりすぎたら目も当てられんだろう」
「だから、丁度いい頃合いを見計らって食うんだよ。……ったく、何で今日に限ってあんたはこうも融通がきかねぇんだよ」
「おい、うどんを買うぞ」
「俺はやだね」
「そうか。なら、お前は食わんでいい。俺は食うぞ」
世界は少々機嫌を損ねている飛葉にお構いなしに歩き出したが、数歩足を進めただけで立ち止まる。そして振り返りざまに
「おい、飛葉。生のうどんはどこに売ってるんだ」
と尋ねた。飛葉はその言葉を聞いた途端に小声で笑い出し、
「ったく、あんたってヤツは何も知らねぇんだな。いいぜ。うどん、買いにいこうぜ。こっちだ」
と、世界が進んだのと逆の方向に歩き始めた。
◇◇◇ 自宅に戻った飛葉は買い物籠代わりのスポーツバッグから食品を取り出し、食事の用意を始める。焼麩と水を小鍋に放り込み、野菜を切り始めた飛葉は、彼の趣味の一つでもある料理に集中し始めているため、世界は手持ち無沙汰でしかたがない。部屋の隅にひとかたまりにまとめられた雑誌をぱらぱらとめくって時間を潰そうと考えはしたものの、バイク雑誌に漫画雑誌には殆ど興味が持てない世界は、ほどなく暇を持て余してしまった。そこで彼は懐から愛用のモーゼルを取り出して具合を確かめると、流し台の方へ向かう。
「おい、飛葉。ウエスはあるか?」
「あるけど……何するんだ?」
「いや……暇でしょうがねぇから、モーゼルの手入れでも……」
そう言いかけた世界の目が、飛葉の手元で止まる。
「飛葉、すき焼きだってのに、なんでそんなでかい鍋を出してるんだ?」
「ああ、割り下用の出汁を……」
「割り下? なんだ、それは」
「味つけんだよ、すき焼きに」
「何を言ってる。すき焼きは醤油と砂糖で味をつけるもんだ」
「へ? あんたこそ、何を言い出すんだよ。割り下を煮立てて肉だの野菜だのを煮るんだよ」
「飛葉、それは邪道だ」
世界が一言一言に重みを加えるように言ったが、飛葉も自分の意見を曲げようとはせず、険しい様子で世界の目を見据えた。世界は無言で出汁を取るために用意された鍋をコンロから降ろし
「お前には任せておけんな」
と言った。
苦手な食材や料理も文句を言わずに食べる、およそ食事に関しては手のかからない筈の世界がすき焼きに強い執着を見せるのに驚いた飛葉は、常ならぬ世界の態度に呆気にとられはしたが、すぐに態度を和らげた。
「わかった。あんたの好きなようにしろ」
飛葉は苦笑混じりに言いながら、野菜の下ごしらえに戻る。世界はコンロの片側に乗せられた土鍋に目を遣った後、
「浅い鍋はあるか? なけりゃ中華鍋でもフライパンでもかまわん」
と訊いた。
「中華鍋もフライパンもあるぜ」
と言いながら、飛葉は流し下の物入れを開く。世界はその前にしゃがみ込み、中華鍋とフライパンをしげしげと見比べてフライパンを選んだ。そして物入れから電気コンロを取り出し和室に戻った。畳の上に置いたままになっているモーゼルを紙袋にしまい、部屋の中央に移動させたちゃぶ台に電気コンロを置き、その上にフライパンを乗せ、世界は電気コンロに火を入れた。
肉と野菜を持って和室に入ってきた飛葉に、
「他の連中は、いつ来るんだ?」
と、世界は尋ねたが、
「来ねぇよ」
飛葉はそう、素っ気なく答えたきりだった。
「肉が1キロもあるぞ?」
「その……じき、あんたの誕生日だろ? 俺ン時は飯を食わせてもらったから……。まだ早いけどよ、誕生日ン時に仕事が入るかもしんねぇし、そしたら誕生日だとか言っちゃいらんねぇし、それで、まぁ、今日は俺も暇だったし、あんたもどうせ暇だろうから……」
世界から視線を外したまま、ぶっきらぼうで歯切れの悪い言葉を連ねる飛葉の顔は照れのために赤くなっている。世界が何も言わないことに業を煮やした飛葉が正面に視線を戻すと、世界は穏やかな目で飛葉を見ていた。僅かに微笑んだような目の色に、飛葉はますます頬を赤く染め、それを隠すように
「ぼーっとしてねぇで、あんたの腕前をとっとと見せろよ。まぁ、今日はアレだ。あんたに花を持たせてやるからよ、不味くたって文句を言ったりしねぇからな」
と、乱暴な口調で言い放つ。世界は笑いをこらえながら
「脂身の塊をよこせ」
と、言った。
◇◇◇ 熱したフライパンに牛脂の塊を入れ、溶け出した脂をまんべんなくフライパンにぬりつけているうちに、フライパンの中央には牛脂が溜まり始める。フライパンから煙が上がり始めると肉が入れられた。世界が箸で肉を炒め、肉色がほぼ変わった頃にネギの白い部分と白菜を肉の上に被せるように置く。
「おい、コゲちまうんじゃねぇの?」
飛葉が訊くと世界は
「野菜から水が出る。心配するな」
と、言葉短かに答えた。
野菜がしんなりとし始めると、世界は醤油と砂糖を大胆に放り込み、更に味を馴染ませる。それから野菜の切れ端で味を確かめ、砂糖と醤油を追加して味を整え、焼き豆腐や椎茸を加える。糸こんにゃくを入れようとした飛葉を制した世界は、不満そうな顔を彼に向けた飛葉に
「こんにゃくは肉に近づけるな。石灰分で肉が固くなる。野菜で仕切を作って肉と隣り合わないようにしてから入れろ」
と、指示を出す。既に鍋奉行と化してしまっている世界に半ば呆れながらも、飛葉は指示に従う。ぐつぐつと煮え始めた鍋の中に春菊とえのき茸が加えられ、一煮立ちするとようやく
「よし、食ってみろ」
と、世界が言った。
飛葉は溶き卵の入った小鉢に肉と野菜を取り分け、ゆっくりと確かめるようにすき焼きを食べた。
「美味いっ! なんか、こう、味がしっかりしてるな」
飛葉の言葉に世界は満足そうな表情で頷き、
「そうだろう。これが関西風のすき焼きだ」
「なるほどね。さすが食い道楽。美味い食い方知ってるわけだ」
「ほら、もっと食え」
世界は上機嫌で飛葉に鍋を勧め、彼も箸を動かす。飛葉は相変わらずの健啖ぶりを発揮し、世界も旺盛な食欲を見せながら肉や野菜を鍋に放り込んでいく。少し味が薄くなったと砂糖と醤油を追加し、
「飛葉。肉を食え。煮えすぎると固くなる」
と言っては飛葉の方に煮えた肉を寄越したり、彼なりの手順で手際よくすき焼きを進行させる世界の様子は、どちらかというと静かな日頃の世界のイメージからはかけ離れており、それは飛葉の目に好ましく映った。
追加する材料がなくなり、フライパンの中身が半分になった頃
「よし、うどんだ」
と、世界がうどん玉を二つ入れた。うどんに煮汁を絡ませるようにかき混ぜ、一煮立ちするのを待って世界が
「よし。うどん食ってもいいぞ」
と言う。飛葉は取り分けたうどんをすすり、
「美味いっ! なんだ。案外、美味いじゃねぇか」
と、上機嫌で箸を動かし、その様子に世界も甘辛い味のうどんを腹に収めた。
◇◇◇ ちゃぶ台の上を片づけ、世界は持参したバーボンを、飛葉は饅頭と緑茶を楽しんでいた。
「関西風のすき焼きってのは、簡単でいいな。うどんを入れりゃ、飯を炊かなくてもいいしよ」
と、飛葉が言った。すると世界が
「すき焼きってのは男の料理だからな。作るのも食うのも手間がかからないもんだ」
と笑った。
「へぇ……。それにしても世界、あんたがこんなにマメだったとは、知らなかったぜ。料理はできねぇ筈じゃなかったのか?」
「すき焼きは別だ。あれなら俺にもできる」
「んじゃ、今度からあんたに作らせてやるよ」
図々しい飛葉の言葉に世界は呆れたような顔をし、飛葉に手招きをした。腰を下ろしたまま世界のそばに移動した飛葉を腕の中に抱き入れた世界は、
「さて、デザートをいただくとするか」
と、飛葉の耳元でささやく。
「な……なんだよ、藪から棒に」
「今日は俺の誕生祝いじゃなかったのか?」
飛葉のささやかな抵抗を戒めるように腕に力を入れ、世界は飛葉の唇を塞ぐ。
「酒臭せぇよ」
口づけの隙を突き、飛葉が呟いた。
「酔っぱらってもいいぞ」
「バカ言ってんじゃねぇよ」
小さく笑いながら憎まれ口を叩く飛葉の服の上から身体の線を確かめるように動いていた世界の手が直接肌をまさぐるほどに、飛葉の吐く息が甘さを帯びる。
「布団を出すか……さすがに、寒いだろう」
世界の言葉に飛葉が頷き立ち上がる。
「手伝えよ」
飛葉は押入を開けながら、背中を向けたまま世界に言った。
世界のお誕生日記念創作。別名『すき焼きバトル』。
すき焼きはオプションが家庭ごとに微妙に違うみたいなので、
こんな楽しみもございます。
まぁ、食欲を満たした後にいちゃいちゃするのは、
人間の三大本能のなせる業ということで、笑って許して〜ん(笑)。
ところですき焼きを仕切る父親って、妙に立派にみえません?
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