水屋の中―続・霖雨―
東京に戻った世界と飛葉は草波のオフィスに立ち寄り、任務についての報告をした。既にその時には次の任務が決定していたが、ワイルド7全員が揃わなければ完遂が難しいと思われたため、他の任務に当たっている仲間が戻るまでの数日間を雨のせいで調子を崩したマシンの整備と休息に充てることで話がついた。事務所を出た二人はその足でガレージにバイクを収め、家路を辿る。
少し遅めの昼食を終えた彼らは次の任務に出るまでの数日間の過ごし方について話し合ったが、その結果はバイクと銃器の手入れというありふれたものとなった。他の者が戻る日程が不明である現時点ではどこかに遠出することもかなわず、また万が一の事態にでもなれば加勢に出動しなくてはならないとなれば悠長な気分にもなれない。充分に気分が抜けない休日は、どうにも妙な案配だと飛葉がぼやく。
「お前の言い分は、わからんでもない。しかし──」
「ああ、わかってる。今はすぐに動き出せる体勢を整えといたほうがいいってことはよ。けどなぁ……」
「そう腐るな。どうせこの雨じゃ、遠出なんぞできはせん」
「まぁ、そうなんだけどよ……」
梅雨の時期に雨が降るのは仕方がないとはいえ、どこか納得しきれないものがあるのだろう。飛葉が鉛色の空を見上げて溜息をついた次の瞬間、
「あーっ! しまった!!」
溜息の途中で飛葉は素っ頓狂な声を上げ、突然雨の中を走り出す。よほど慌てているのか、水たまりを避けようともせず駆ける飛葉の足下で泥が跳ね上がる。驚いた世界が飛葉の背中に声をかけると
「悪りぃ。俺、急いで戻らなきゃなんねぇんだ。世界。あんたは後からゆっくり来りゃいいぜ」
と、振り向きざまに言い残して飛葉が駆けてゆく。世界は呆気にとられながらも、一体何事があったものかと、歩調を早めて飛葉の後を追った。
◇◇◇ 世界が飛葉の部屋に入ると、部屋の主は水屋の前でがっくりと肩を落として座り込んでいた。
「どうした、飛葉」
世界の声に振り返った飛葉は、何とも情けなさそうな顔をしている。靴を脱ぎ、部屋に上がると、飛葉の手の上に小さな包みが見えた。
「饅頭に……カビが生えやがった」
飛葉のどうしようもなく悔しそうな様子に
「この時節だ。饅頭にカビが生えるくらい、珍しいことでもなかろう」
と世界が言った。すると飛葉は
「そんな言い方はねぇだろう? この饅頭はな、水無月堂のやつなんだぞ。しかも毎月5のつく日だけしか売ってない、美味くて珍しい饅頭なんだよ」
と、勢い込んで訴える。
「仕事があるから滅多に買えなくてよ。この間、やっと買えたと思ったら昨日のヤマが入って、さっさと終わらせて帰ってからゆっくり食おうと思って、俺は楽しみにしてたんだ。それなのに……」
ひどく意気消沈している飛葉の姿に、世界は微かな目眩を覚えた。相手が悪党であれば顔色一つ変えずに地獄送りにする男が、何日か留守をしていた間に饅頭が黴びたと言って落ち込む姿は、珍しいを通り越して情けない。大食らいで甘党の飛葉の嘆きはわからないでもないし、食べ物を粗末にしない心掛けは誉められてしかるべきだろう。だが、しかし――。
しかし、である。任務を無事に終え、互いにほぼ無傷で戻れた後はゆっくりと過ごしたいというのが正直なところであり、その時できれば飛葉を傍らに寄せていたいと世界は思う。極端に照れ屋で色恋沙汰に疎い飛葉が相手だということ、また次から次から舞い込む任務のために、何ものにもじゃまされない時間はななかできないのだ。だからこそ、不意に訪れた予定のない時間を恋人として有効に使いたいと世界は思うのだった。
世界ががっくりと肩を落としている飛葉を眺めていると、飛葉は紙包みを膝の上に乗せて何かゴソゴソとし始めた。その手元を世界がのぞき込むと、飛葉は饅頭の表面を薄青く染めるカビを剥ぎ取っている。
「お前……何をしてるんだ」
「いや……その……カビにやられてんのは外側だけだから……」
世界は飛葉の頭に拳骨を一つ落とし
「お前は、バカか」
と言う。
「けど、勿体ねぇじゃねーかよ。中はまだ食えるかもしんねぇだろ」
「それで腹をこわしたらどうするんだ」
「正露丸飲めばいいじゃねーか!」
世界は拳骨をもう一つ、飛葉の頭にお見舞いすると懐から煙草を取り出す。
「饅頭くらい、俺が買ってやる。だから黴びた饅頭なんか食うな」
ゆっくりと紫煙を吐き出す世界を見上げる飛葉はいつの間にか機嫌を直して、どんぐり眼を更に大きく見開いている。
「饅頭、奢ってくれんのかよ」
奢りという言葉に目を輝かせている飛葉の、あまりに現金なその変わりように少々狼狽えはしたが、世界は平静を装って答えた。
「ああ、だから食うな。そんなものは」
「わかったよ。そこまで言うなら、あんたの顔を立ててやるよ」
そういって飛葉は極上の笑みを浮かべた。世界は苦笑いを浮かべながら飛葉の頤に指をかけて唇をかすめ取る。
「な……何すんだよ。いきなり……」
「饅頭代だ」
世界は飛葉の身体を引いて奥の和室に向かう。
「ちょ……ちょっと待てよ」
飛葉の頬に朱が走り、驚きに声が裏返る。そんな飛葉にお構いなしに事を運ぼうとする世界に飛葉は抗おうとしたが、両腕は簡単に封じ込まれてしまう。飛葉の面に狼狽の色が浮かぶと、世界は腕から少し力を抜いた。
「とって食おうってわけじゃない」
世界が微笑うと、飛葉の表情が見る間にくつろいでゆく。
互いの唇を触れ合わせながら、世界と飛葉は囁きに似た言葉を交わす。それは睦言と呼ぶにはあまりにもたわいなく、けれど緊張した神経を解きほぐすには充分なものだった。
畳に足を投げ出したまま壁にもたれて見送る、雨の日の午後の時は不思議なほどに緩慢に流れていく。飛葉は世界に背中を預けたまま、世界は飛葉の少しクセのある柔らかな髪を指で梳き、低い声で飛葉の知らぬ古い歌を口ずさむ。
「俺は饅頭かよ」
飛葉の何気ない呟きに世界は、
「どっちかというと、酒の肴だな」
と答える。飛葉は食べ物に例える世界を色気がないとひとしきり笑い、世界もまた飛葉の体温を感じながら心地よい笑いに引き込まれていった。
ちょっとくらいのカビなら、気にしないかも。
いや、きっと食欲が勝てば食うぞ。
とっときの饅頭が黴びて、しょげる飛葉ちゃん。
それを見て脱力する世界。
いらん心労が重なって、世界はますます老けてゆきます(笑)。
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