除夜の鐘


 凍てつくような冬の空気を切るように、除夜の鐘が夜の町中に響き渡る。常ならば人っ子一人通ることのない時間だというのに、大晦日の夜だけは大通りは言うまでもなく、狭い路地裏のそここに旧い1年を見送り、新しい年を迎えるために浄められた場所に向かう人々がいた。

 恵まれた日々を過ごせたことへの感謝と、この先も変わらない幸福の祈りを胸に秘めた者も、繰り返されたついていない毎日を埋め合わせるに足る幸運を願う者も、さしたる希望も後悔もなく、ただ習慣的に歩みを進める者も一様に晴れやかな表情を浮かべているのは、間もなく新年を迎えるのだという気分によるものなのかもしれない。何も知らない子供の頃から、新年を迎える瞬間だけは特別だった。普段は決して許されない夜更かしや夜食の熱いそばなどの記憶と共に甦る、幼い頃に感じた浮き足立つ感覚と、長じてから覚えるようになった、また一つ歳をとることへの何かしら遣り切れぬ思いが綯い交ぜになった心地を抱いていた世界は、人の流れに逆らうように早足で近づく凛とした声に顔を上げる。

「おい、何やってんだよ」

あどけない子供の面差しが僅かに感じられる少年の頬は、少し紅潮していた。

「早く行かねぇと、ぜんざい、食いはぐっちまうぜ」

参道の先を顎と視線で示しながら、少年が急くように言う。

「飛葉……俺たちは初詣に来ただけで、ぜんざいを食うために寒い中出てきたわけじゃないんだぞ」

男の呆れたような言葉に、飛葉と呼ばれた少年が唇を尖らせて反論する。

「世界、あんたはそれでいいかもしんねーけどな、俺は初詣は二の次で、ぜんざいが目当てなんだよ。だから、ほら、急げよ」

飛葉は彼よりも一回り大柄で、髭を蓄えた男の後ろに回り、その背中を笑いながら押す。世界は諦めたような顔で、心持ち歩調を速める。

「ぜんざい1杯で釣られるような歳じゃねーだろう?」

「ここのは特別なんだ。なんたって、御利益があるんだからな」

「俺たちにそんなもの、関係あるもんか」

「んなこたぁ、ねぇよ。ま、地獄送りが決まってるような俺たちを仏や坊主は見向きもしやしねだろうけど、神さんの中には俺たちの親戚みたいなヤツもいるだろ?」

「そりゃ、死に神だけだ」

「一人いりゃ、十分」

 世界の歩調に満足したのか、飛葉はその隣に移動して歩き始めたが、すぐに参道の脇に並んでいる露店に気を取られ出す。時折、ふらふらと人の流れから外れた飛葉は、世界の隣に戻る時には必ず、何かしら口を動かしている。そんなことがあまりに目につくため、

「飛葉、いい加減にしないとぜんざいが入らなくなるぞ」

と、戒めてみるのだが、飛葉はそんな言葉もどこ吹く風といった様子で笑ってばかりだった。

 間もなく境内に到着しようとした頃、飛葉は射的の店の前で立ち止まった。露店の前には大勢の子どもたちが群がり、少ない小遣いで買った弾で目当ての景品に狙いを定めている。飛葉はそんな子どもたちを眺めた後、アセチレンランプに照らし出された景品の品定めを始めたらしく、その足は数分前から止まったままだ。

 昨年、ワイルド7で一番の射撃の腕を駆使して思いのままに景品を手中に収め、その挙げ句に店主から邪険にされ、追い出されるように帰らねばならなかったことを思い出し、世界は飛葉の背中を軽く押して言う。

「おい、行くぞ」

だが、飛葉は心ここにあらずといった生返事をするだけで、動こうとはしない。

「飛葉、射的は後だ。とりあえず、先に初詣を済ませるぞ。それに急がないとぜんざいがなくなるんじゃなかったのか」

世界の言葉に飛葉はようやく動きはしたが、後ろ髪を引かれていることは、その動作から明らかだった。

「飛葉、急ぐぞ」

世界はそう言って飛葉の手を取り、足早に境内へ向かった。

 本殿前は既に人が溢れ、人の波は遅々として進まない。世界と飛葉の二人はしばらくは人混みの中にいたが、前になかなか進めないのに業を煮やして集団から離れた。混み合う本殿から少し離れた場所にいた世界が、不意に飛葉を連れて本殿横の細い道に向かう。両脇に寒椿が植えられた小道は上り坂になっているためか、彼らの他に人影はなかった。世界が先に立ち、飛葉は世界の手に引かれて小道の先に浮かぶ小さな灯りを目指す。数分も歩くと、百葉箱ほどの大きさの、白木造りのささやかな神殿が現れた。

「こんなとこにも、神さんが祀ってあったのか」

「さっき、神主が戻ってきたのを見かけたんだ」

「へぇ……」

飛葉が心底、感心したような声で言った。

「ほら、さっさと手を合わせろ。ぜんざいを食い損なうぞ」

世界の言葉に飛葉の表に、きまり悪そうな表情が浮かぶ。世界が怪訝な顔で飛葉を見遣ると

「手……」

と、飛葉が呟いた。

 見ると、よそ見ばかりしている飛葉を参道に戻す時に掴んだ手がそのままになっている。足下を見ている飛葉の耳は朱に染まっていたが、それが冷たい夜気に晒されたためなのか、知らぬこととは言え、人混みの中でずっと手をつなぐ格好になってしまったからなのかはわからない。ただ飛葉がつながれた手を解こうとはせず、世界もまた右手に感じるぬくもりを手放すつもりもないことは確かだった。数秒の沈黙の後、自分の名を呼ぶ声に飛葉が顔を上げると同時に冷たさに張りつめていた空気が動き、唇がふさがれる。冬の夜の寒さで冷えた二人の唇が互いの体温を伝えようとするように熱を帯び始め、その熱がゆっくりと全身に広がるのが感じられた。

「……罰当たりな野郎だ……」

惜しむようにゆっくりと唇を離した後、飛葉が小さな声で言った。

「手が空いてないんだ。仕方がない」

悪びれた様子など全くない口調に呆れ顔になった飛葉は、小さな声で、けれど心底楽しそうに笑い出した。世界は周囲を見回してから飛葉を引き寄せ、その髪に唇を寄せて新年を言祝ぐ台詞を囁き、飛葉もそれに倣う。そして触れるだけの口づけを交わした後、二人は手を離すことなく、来た道を戻る。一歩一歩を踏みしめるように、来た時よりも遅い歩調で歩きながら、彼らはとりあえず、互いが今、生きて存在している事実に満ち足りた気持ちになることができたのだった。

◇◇◇

 ぜんざい目当ての人山から少し離れた場所に立ち、世界は無病息災、家内安全、子孫繁栄、交通安全などに御利益があるというぜんざいを取りに行った飛葉の後ろ姿を眺めていた。小柄な飛葉はすぐに人混みの中に紛れて見えなくなったが、間もなくすると朱塗りの腕と箸を両手で持った飛葉が足早に、けれど慎重に戻る姿が見えた。世界のそばに来た飛葉は、寒さとぜんざいの鍋から上がっていた湯気で頬を赤く染めたまま、嬉しそうに椀に箸をつけ、熱い小豆の汁を二口ばかりすすると、世界に椀を突き出した。

「俺はいい」

と世界が椀を押し戻すと

「いいから食え。少しは弾除けになる」

と、飛葉が言う。

「一口でいいから、食え」

自分を見上げる飛葉の真剣な瞳に微笑で応えた世界は、飛葉の手と椀を両手で包み込み、ぜんざいを少しだけ食べた。

「よし。これで俺たちは大丈夫だ。来年も生き延びられる」

と、飛葉が笑い、残りのぜんざいをゆっくりと味わう。

「他の連中の分は、俺が代わりに食べときゃいいよな」

などと言いながら、飛葉は熱い餅を噛み切っている。

 世界は口直しの煙草を燻らせながら、嬉しそうにぜんざいを食べる飛葉の姿と共に幸福そうな人々を眺めていた。


幸せな二人の初詣の風景。
ちなみに司書の実家から車で15分ほどの所に
正月三が日に厄よけぜんざいをタダで食べさせてくれる神社が
本当にあったりして、子供の頃の楽しみの一つでした。
まぁ、初詣よりもぜんざいとかたこ焼きとかが目当てでしたけども(笑)。


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