宵 桜
空が淡い茜色に染まりかける頃には、春の空気は次第に温もりを失い始める。彼らは名残惜しそうに宴の片づけを始めた。まずは志乃ベエを送るために『ボン』に行き、コーヒーを飲む。午後いっぱい、だらだらと酒食に興じていたため改めて夕食をと言い出す者はなく、うららかな春の日を締めくくるために三々五々と散っていく。
◇◇◇ 世界と飛葉は連れ立って家路を辿っていた。宴の余韻のせいか飛葉は常よりも陽気で、世界もまた幾分口数が増えているようで、他愛のない会話は途切れることを知らない。
朧月の頼りない光が照らす道行きは楽しいものながらも、あやふやな影を落としているのは賑やかなひとときを過ごした後だからなのか。それとも春の夜には人の心を不安にさせる何かが潜んでいるのだろうか。それ故、世界の傍近く、並んで歩いているにもかかわらず、微かなやるせなさが胸の中から消えないのか――。
やがて二人の岐路が遠くに見え始めた。世界はこの夜の過ごし方については何も言わず、飛葉もまた口にできないでいる。口吻から出るものと言えば罪のない話の続きばかりで、飛葉は少しばかり焦れていた。
まだ人肌が恋しい春の夜を共に過ごすことができれば、先刻から飛葉を苛んでいる切なさだとか、およそ普段の彼には似つかわしくない感情は雲散霧消となるだろう。けれど何の躊躇もなく感情を吐露できるほど幼くもなく、素直にもなれない。一言の、ごく短い言葉が口にできずにいるうちに、行く手を分かつ三叉路はゆっくりと、けれど確実に一歩一歩近づいてくる。飛葉の胸の内を知ってか知らずか、世界は変わらぬ様子で歩みを進めるばかりで本心をうかがうこともできない。
間もなく岐路に差し掛かろうとする頃、飛葉は思わず駆け出していた。驚いた世界が飛葉を呼ぶ。飛葉は三叉路の少し先で立ち止まり、ゆっくりと後ろを振り返る。粗末な街灯の薄暗い光の傍に立ち、驚きの表情を浮かべている男の目を、飛葉は真っ直ぐに見つめた。
二人の間に言葉はない。互いを認め合う強い視線だけが、ただそこにあった。
自ら誘っていることを、飛葉は承知していた。任務から外れた開放感と僅かな空虚さを、素の自分に戻った時に持てあましてしまう甘やかな熱を、もはや一人で鎮めることはできない。飛葉には世界が必要だった。同じように世界にも必要とされたいと強く願う。今更慎みがどうこう言うつもりはなかったが、己の感情に素直に従うことはまだ苦手だった。一言も語らず理解してもらいたいなどと考えること自体が、子供じみた我が儘だということもわかっている。けれど世界にだけは酌んでもらいたかった。
どれくらいの間、無言で立ち尽くしているのかわからなくなっていた。動かぬ夜の帳を開くように、ゆっくりと世界が飛葉に歩み寄る。飛葉は驚きと安堵と、僅かばかりの羞恥と躊躇を覚えながら世界を見つめていた。
互いの体温が微かに感じられるほどに距離が詰められる。飛葉が世界を見上げると、髪に薄紅色小さな花弁があるのに気がついた。飛葉は手を伸ばして花弁を取り、春の陽光の中での宴の名残を世界に示す。世界は飛葉の手に花弁を握らせると、ゆっくりと唇を重ねた。
花見の後のお約束(はぁと)。
花見で浮かれた後は、しっぽりしっとりとした夜を過ごすのも
粋ではないかと思います。