幸福な諍い 3
翌日、飛葉は『ボン』に顔を出したが、そこに世界の姿はなかった。飛葉が手持ちぶさたな風情でコーヒーを飲んでいるとオヤブンが、それから他のメンバーも店を訪れ、昼を回る頃には、八百と世界を除くメンバーが顔を揃えていた。皆世界の不在を不思議に思わないのか、誰も世界の名を口にしようとはしない。それどころか、世界がこの場にいないことが当然であるかのような素振りさえ感じられる。それ故、飛葉は世界がいない理由を尋ねることもできずに、飛葉は落ち着かない気分で会話に加わっていた。時折、誰にも気取られないようにドアの方向へ視線を投げては、素直になれなかったばかりに怒らせてしまった男の姿を探した。けれどその日、世界の顔を見ることはできなかった。
世界に会うこともできず、八百からの連絡も入らない。『ボン』が店じまいを始めたのを機にメンバーは散開し、飛葉は下宿への道を歩いていたつもりだったが、いつの間にか世界の部屋の方向に足を向けていたらしい。次の角を左に曲がり、2本目の横道に入り、そのまま真っ直ぐ歩けば世界の住むアパートの前に着く。1階の世界の部屋のドアまで、5分とかからないだろう。アパートに行ったところで、今の自分には世界に会う勇気がないどころか、その資格さえ失ってしまっているかもしれないということは承知していた。それでも飛葉は、彼自身が世界の側に存在しているという――既に仲間の一人に過ぎない人間だと思われていたとしても――証が欲しい。ただそれだけのために、飛葉は今はもう通い慣れてしまった道のりを辿る。
世界の部屋は灯がついていた。飛葉は窓から少し離れた場所に立ち、一心に世界の部屋の窓を見つめ続ける。ほんの一瞬でかまわない。部屋の主の影が窓をよぎるのを見られれば、生きていることさえ確かめえさずれば安心して眠ることができる。例え二度とその腕の中で安らげる時を得られなかったとしても、遠くからその姿を、瞬きをするくらいの、ほんの短い時間しか見ることが許されないとしても、世界が存在している空間の片隅にいられさえすればとさえ思う。
「……ちくしょう……」
無意識に言葉が出た。自分のものだとは思えないような頼りない声に驚いた飛葉は、耐えきれないように視線を足下に落とす。
◇◇◇ まるで子どもの頃に戻ったようだった。二人の兄弟を育てるために小さな飲み屋を営んでいた飛葉の母親は、店では独身で通していた。母親が恋しくて店を訪ねたことがあったが、子どもがいることを知られるのを恐れた母親は飛葉を無視するか、ひどく叱って追い返すかのどちらかだった。家を出発した時には喜びに満ちていたはずの心は沈み、幸福そうな親子連れの姿を見ると涙が溢れ、家路を辿ることさえおぼつかなくなる。幼かった飛葉は抱えきれないほどの心細さや寂しさを、親子の、血のつながりという絆を信じることで紛らわせ、母親の行動を正当化することでようやく自分を保つことができた。母は兄と自分を育てるために働いてくれている。母親によく似た面差しの兄に注がれる愛情とは、比べものにもならないけれど、それでも嫌われているわけではない。母親と兄と共に暮らしていることだけが、幼い飛葉に信じることのできた唯一の親子の絆と呼べるものだった。しかし飛葉と世界との間には親子の関係のように、断ち切ることのできない絆のようなものは存在していない。どちらかが相手を必要としなくなった途端に終息する、極めて不確かで、絆というよりも関わり合いと呼ぶほうが似つかわしいそのつながりは、あっけないほど簡単に切れてしまう。
世界を傷つけるつもりはなかった。どうすればいいのかわからなかった。自分のためだけに用意された、あたたかな場所にい続ける資格があるのかもわからない。
どんな状況の中でも自分を見つめてくれる誰かを求めていた。その誰かを守ることのできる人間になりたかった。そのために強くなりたかった。
世界に出会った。全幅の信頼を寄せられる人物から、飛葉にとって唯一の存在に変わるまでには長い歳月は必要ではなかった。
そばにいるだけで、心があたたかな気持ちで満たされた。髪に触れられるのが嬉しかった。微かに残る煙草とポマードの臭いに包まれて眠るのが好きだった。子供じみたわがままで困らせた時に見せる、呆れたような笑顔を独占したかった。いつも見つめていたかった。いつまでも見ていてほしかった。
好きだったのだ。いつの間にか、心の大部分を占めてしまうほどに、世界に焦がれ、世界を求めている事実に、ようやく飛葉は気付いた。
だが遅すぎた。左の頬に決して消えない痛みを残し、世界は飛葉を残して行ってしまった。もう、二度とサングラスの下の穏やかな目が、自分に向けられることはないだろう。そう仕向けたのは誰でもない。飛葉自身だった。
飛葉は悔やんだ。あの時、ドアを開けていれば……。あの夜、世界の言葉に耳を傾けていれば……。そうしていたなら今頃は……。
◇◇◇ 「どうした、飛葉。こんな所で」
突然背後からかけられた声に驚いた飛葉が顔を上げて振り向くと、世界が立っていた。
「……あんたこそ、こんな時間にどこへ行ってんだよ。電気……点けっぱなしで」
「煙草が切れた。すぐそこの自販機で買うつもりで電気をつけたまま部屋を出たんだが、生憎と故障中だったものだから、遠出することになっちまった。何かあったのか」
「……その……今日は『ボン』に来なかったろ」
「他の連中に聞かなかったのか? 八百とアタリを取るために向こうに行ってたんだ。あまり若い奴は目立つらしくてな、俺にお鉢が回ってきた」
世界の不在が任務のためだと知った飛葉は安堵の表情を浮かべた。それを認めた世界が飛葉に声をかける。
「他に何かあるんじゃないのか」
「ねぇよ。もう帰る」
飛葉が何もなかったような顔で世界の横を通り過ぎようとした時、世界が飛葉の腕を掴んだ。
「待て。話がある。上がっていけ」
「俺には、ねぇよ」
「お前になくても、俺にはある。来い」
「離せよ!!引っ張らなくたって、一人で歩けらぁ!!」
そう言うと飛葉は彼の手を強く掴んでいる手を振り払い、世界の後に続いた。
◇◇◇ 世界に促され、飛葉は先に玄関先に入った。飛葉は不思議な気分にとらわれる。たった数日間離れていただけで懐かしく感じられる部屋の空気を胸一杯に吸い込んだだけで、先刻まで全身を満たしていた絶望的な気分が薄らぎ、換わって安心感のような感情が湧き上がる。飛葉がその感覚に気を取られた一瞬の隙を突き、世界は飛葉の身体を壁に押しつけてその頤(おとがい)に指をかけ、心持ち上を向かせた。そして飛葉と視線を合わせようとしなかった数日間を埋めようとするかのように飛葉の目を見つめる。
「傷、治ったな」
世界は飛葉の口元に視線を落とした後、そう耳元で囁き、飛葉の唇に自分の唇を重ねた。突然の口づけに驚いた飛葉は瞼を閉じることもできずに、立ち尽くすばかりだった。そんな飛葉の様子に気付いた世界は一旦身体を離し、その腕の中に閉じこめようとするかのように飛葉を抱きしめる。熱い抱擁にようやく我に返った飛葉は、世界の腕から必死に逃れようと手足をばたつかせるのだが、世界の腕は甘やかな拘束となって飛葉の四肢の動きを器用に抑えてしまう。
「やめろ……離せよ」
世界の腕の中で、飛葉が苦しげに言った。
「世界……離せよ。俺は……俺は、あんたなんか嫌いだ……」
「本気で言っているのか?」
飛葉の瞳を真っ直ぐに見つめ、世界が問う。飛葉の全身に戦慄に似た緊張が走る。
「本気なら、もう行け。ドアの鍵はかけてない」
世界は、飛葉の四肢を戒めていた手を緩める。しかし世界の視線は飛葉を捉えて離さない。世界の眼差しから逃れるように目を足下に落とした飛葉の身体から、次第に力が抜けていく。へなへなと玄関先に座り込んだ飛葉に、世界が手を差し伸べる。
「立て。こんな所に座ったままだと、風邪を引いちまう」
躊躇いがちに差し出された飛葉の手を強く握り締めると、世界はまるで子どもを宥めるような動作で立ち上がらせて部屋の中に連れていく。そして飛葉をガスストーブの前に座らせた後、その傍らに腰を下ろした。
「飛葉……昨夜は悪かったな」
そう言うと世界は、うなだれている飛葉の左頬にそっと手を沿える。
「俺もおとなげがなかった。だがな、飛葉。お前があんなことを言うから……だからつい、カッとなっちまって……」
「……」
飛葉が俯いたまま、小さな声で何か言った。
「飛葉? 今何て言った?」
世界の言葉に弾かれるように顔を上げた飛葉は、世界の胸を拳で叩きながら言う。
「バカヤロー。あんたが……あんたが悪いんだ」
世界は自分の胸に顔を埋めるように、力無く拳を振るい続けている飛葉の髪を指で梳きながら
「ああ、そうだ。俺が悪い。だからもう二度と、昨夜みたいなことを言うな。一瞬……心臓が止まるかと思った」
「バカ……ヤロー……」
世界が飛葉の言葉を唇で遮ると、飛葉は子どもような強い力で世界にしがみつき、その背を抱きしめる。抱擁の熱さに比例するかのように口づけは深さを増し、更に激しく互いを求め合う。世界が飛葉の耳元で何事かを囁くと、飛葉は頬どころかうなじまで紅潮させ、抗議とも照れ隠しともとれる言葉を返す。そんな飛葉を愛しげに見つめたままの世界を呆れて見つめていた飛葉は、世界の耳の近くで、まるで内緒話をするように話しかけた。
そして――玄関の鍵を閉めて戻ってきた飛葉を抱き留めた世界は、飛葉の髪に頬を寄せると、黙って部屋の灯を消した。
◇◇◇ 二人の乱れた鼓動が徐々に静まりつつある。けれど先刻まで全身を、そして精神までも焼き尽くすのではないかと思われた激しい熱情は、まだそこここに名残を留めている。世界はまるで何かを確かめるように、飛葉の唇に自分の唇を重ねる。包み込むような世界の唇に応える飛葉が少し、けれど決定的な何かが変わったように、互いの距離が僅かでも近づいたように、世界は感じた。
そっと身体を離した世界が飛葉に言う。
「切れてないな」
世界の嬉しそうな表情と言葉を聞いた飛葉が、真っ赤な顔をして世界に枕を投げつけた。
「スケベオヤジ!!変なこと、言うんじゃねーよ!!」
飛葉の怒りなど意に介さない世界は、
「もう、噛むな。また同じようなことになっちまうぞ。俺はもう、懲り懲りだからな」
と、真顔で言い、飛葉の腕を掴んで再び、その腕の中に愛しい恋人を引き入れる。そして紅く染まったままの耳元で
「唇を噛むくらいなら、さっきみたいに俺を呼んでくれ」
と、囁いた。
裸のお付き合いが始まってから、初めての本格的な痴話喧嘩。
実際の痴話喧嘩は犬も食わないそうですが、創作物も同じです。
ちょっと強気でイケイケなオヤジと、自虐的な飛葉。
今回はオヤジの経験値の高さが勝因。
ブラヴォー、オヤジ!!