穏やかな休日―1―
幾分高くなった陽射しが部屋に射し込んでいる。任務から解放され、ささやかな平和な時間の訪れを示すかのような青い空が少しばかり汚れた窓ガラスの向こうに広がり、男の腕の中では確かな温もりを持つ少年が安らかな寝息を立てていた。荒んだ生活の中での唯一の希望とも言える少年を抱く腕に、男がゆっくりと力を込めると、少年はあどけない表情を浮かべて目を覚ます。
「相変わらず、早いな」
「何を言ってる。もう、昼が近い」
「あんたはいつも、俺より早く起きるじゃねぇか。やっぱ、年のせいかな」
眠気をその身にまとわりつかせたまま憎まれ口を叩きながら笑う飛葉が、男の腕をゆっくりと解いて布団の上に胡座をかき、大きく伸びをする。下着だけを身につけている飛葉の姿を見て、男は言葉を失った。
「おい、世界。どうした?」
「飛葉……それは俺か?」
世界の目線の先には無数の小さな印がある。飛葉は自分の肌に散らばる赤い花びらに視線を落とした後、憮然とした表情で言う。
「あんたの他に、誰がこんなことすんだよ」
飛葉の言葉に世界は、文字どおり顔色を失った。普段、あからさまに表情を変えることのない世界が呆然とする様子は、実に珍しいものだった。いつも自分を子ども扱いばかりしている世界に意趣返しする好機は今とばかりに、飛葉がからかうような調子で言葉を繋ぐ。
「昨夜、あんたはたいがいしつこかったよな。俺がやめろって言っても聞く耳持ってやしねぇ。おまけに、その髭。最近忙しかったから、顎の無精ひげが痛いっつってんのに、ジョリジョリとこすりつけてきやがるしよ。お陰で俺は、散々な目に……」
ふと世界に視線を向けた時に目に入った、あまりに呆然とした様子に、さすがの飛葉もそれ以上言葉を続けることができなかった。
「おい……もしかして、あんた、昨夜のこと、全然覚えてないとか言う?」
飛葉の問いかけに世界は言葉なく頷いた。
「連中と一緒に夜鳴きソバ食ったのは覚えてるよな? それからおでんの屋台を見つけて、あんたら酒飲んでたろ? で、二人で俺ン家まで来たんだぜ? その後、あんたがこんなコトしたんじゃねぇか。どの辺まで覚えてんだ?」
「おでんを食った。酒も飲んだ。ここに来たのも覚えがある」
「その先は知らねぇってのか?」
呆れ果てたような飛葉の声に、世界はすっかりうなだれてしまった。
「おいおい、勘弁してくれよ。まだ耄碌するような年じゃねぇだろ」
顎に手を添え、懸命に記憶を辿ろうとしているのか、世界は黙り込んだまま煎餅布団にかけられたシーツを見つめている。その姿はまるで、小さな子どものように飛葉の目に映った。丸めている肩がいつになく頼りなげに見えてしまい、飛葉は殆ど無意識に、俯いている世界の頭を抱き込んでしまった。
「気にすんなよ。あんた、疲れてたんだよ。この間のアレはけっこうキツイヤマだったし、酒入ってたから、珍しく酔っちまったんだ。俺はよ、気にしてねぇ。だからあんたも気にすんな。な?」
「悪かったな、飛葉。これじゃ当分、風呂屋にも行けんだろう」
「あんたン家の風呂、貸してくれりゃいいよ」
「その……無理矢理だったんじゃないか? 情けないことに、俺は何も覚えてもないんだ。もしそうなら……」
「おいおい、やめろよ。もし……もし本当に嫌だったら、あんた今頃ボコボコになってるはずだぜ? そんなことくらい、わかれよ」
飛葉は胸の中に抱いている世界の髪を撫で続けていた。世界も逆らうことなく、飛葉の腕の中にいる。これではどちらが年下かわからないと、飛葉は思った。
日頃から自分を子ども扱いばかりしている男の心許ない様子が愛しい。いつもなら自分を甘やかしているはずの男を腕の中に抱き留めながら、誰かの体温を感じるということが、これほど心地よいものだったのかと、改めて思った。任務のない時など、世界が飛葉を腕の中に抱え込んだり子ども扱いしたがるのは、腕の中に生まれる快い体温のせいなのかもしれないと思い至ると、下手をすると親子に間違われかねない二人に、大きな違いなどないような気にもなる。
「飛葉……本当にすまなかったな」
世界が沈み込んだ口調で言う。
「謝るなよ。こんなことくらいで、そんなこと言うなよ」
そう言うと飛葉は、すっかり覇気を失ってしまった世界に口づけた。そのお陰で世界の表情は少しばかり明るくなりはしたが、普段の調子を取り戻すには至らない。
「じゃ、こうしようぜ。今日一日、あんたは俺の言うこと、なんでも聞くんだ。それから痕が消えるまで、俺はあんたン家の一番風呂に入る。どうだ? それで今回のことは、チャラにしてやるよ」
努めて明るく話す飛葉の様子に、世界も少々気を取り直したように見えた。
「そんなことでいいのか?」
「ああ、上等上等」
「わかった。お前のわがままにつき合わせてもらおう」
世界がようやく明るい笑顔になり、それを見た飛葉も嬉しそうに笑った。
「じゃ、これからハマに出ようぜ。で、昼飯にうまい中華を食うんだ。それからあちこちぶらついて……氷川丸にも行こう。どっかの屋台でちまきだの豚マンだの買って、それを食べながら昼寝もしてぇよな。あ、言っとくけど、これは全部、あんたのオゴリだからな。わかってんな?」
「ああ、わかってるさ。好きなだけ食うといい」
そう言うと世界は飛葉に触れるだけの口づけをした。飛葉は一瞬、照れくさそうな表情を浮かべ、上機嫌で洗面台のほうへ向かう。世界は布団を押入に押し込みながら、ガラスの向こうの薄汚れた青い空を見上げる。そこからは二人の穏やかな休日の訪れの前触れのような、柔らかい陽射しが部屋に射し込んでいた。