Shall we dance?-2


 世界と飛葉がガレージに戻った時、既に中には誰もいなかった。

 夕刻にはまだ早すぎる時刻であるにもかかわらず、もぬけの殻となってしまっているガレージは、世界が飛葉の特訓を押しつけられた事実を雄弁に物語っていた。世界はとうにやる気を失っている飛葉を相手にタンゴのレッスンを始め、飴と鞭を巧みに使い分けながら、飛葉の身体に最低限必要とされるステップをたたき込むことに成功し、日付が変わる前には滑らかとは言えないまでも、それなりのステップが踏めるまでに仕上げることができた。

 小休止をとっている間、世界はダンス好きの人間が集まった中で、素人同然の飛葉の存在がボウル・ルームで浮いてしまわないような策を練り始める。飛葉は床に座り込んでコーラを飲みながら、世界が煙草をくゆらすのを無言のまま眺めていた。

「飛葉。お前にお呼びかかったら、ワルツとタンゴしか踊れないことを相手に言うんだ。それからダンスは覚えたばかりだから、リードしてもらえないかって頼むのも忘れるな」

「そんな情けないこたぁ、お断りだね」

「明日1日でボックスステップも、完璧にマスターできるのか?」

世界の問に、飛葉は言葉を失う。

「若いお前が下手に出れば、大抵の女はお前が恥をかかないようにリードしてくれるはずだし、少々へたくそでも、ステップを間違おうと大目に見てくれるだろうよ。お前は相手のリードに任せて、足を踏んだりしないように注意するだけでいい。立て。相手に俺がリードしてやるから、相手に合わせて踊る要領を覚えろ」

不承不承立ち上がった飛葉の右手を自分の背に回し、飛葉の肩に自分の左の手を置く。そして残った手を重ねる。互いの身体が密着するほどの距離となった体勢に戸惑う飛葉に目もくれず、

「俺の動きに合わせるだけでいい。そうすれば自然に足が動く」

と、世界は言い、ワルツのステップを踏み始めた。

 ゆったりとしたペースで動く世界の動きに合わせようにも、息がかかるほどの距離に世界がいることを意識してしまっている飛葉にその余裕はなく、幾度も世界の足を踏みつけてしまう。世界は不愉快な声を上げるどころか、眉根一つ動かすことなく淡々とステップを踏み続けている。

 時折、世界の変わらぬ表情を盗み見ながら、飛葉は早まる鼓動を知られないよう必死になっていた。ダンスのせいではなく、世界に身体を寄せているために熱を帯び始めた身体を持て余し、いっそ全てをこの瞬間に投げ出したいとさえ考えてしまう自分が信じられず、また、これほど近く身体を寄せ合っているにもかかわらず、平然としている世界を憎らしく思うと同時に、自分自身の幼さが口惜しくも感じられる。

 不意に世界の動きが止まり、飛葉は世界にぶつかってしまった。抱き留められるような姿勢に、飛葉は狼狽を隠せない。

「飛葉、気を散らせるな」

「ああ、悪りぃ」

そう言うと、飛葉はできるだけさり気なく世界から身体を離し、二人はしばしの休息をとることにした。

「相手が動く方向に合わせるんじゃなく、身体を預けるように動け。ダンスってのはお互いに相手を受け入れ、与えることで成立するもんなんだ。まぁ、ダンスだけでなく、空中ブランコのパートナーとの演技でも同じことが言えるんだがな」

世界が煙草に火を点け、飛葉は飲み残しのコーラを口に含む。既にぬるくなってしまってはいたが、火照った身体と心を冷やすには十分効果があった。

 再び向き合った時、

「もう一度。今度はお前がリードしてみろ。俺が合わせてやる」

と、世界が言った。飛葉の足がゆっくりとワルツのリズムを刻み始めると、世界は先刻踊っていた時よりも距離を詰める。慣れないために歩幅やリズムが一定していない、もつれがちになる飛葉の動きに応じたステップを踏む世界に、飛葉は驚嘆を覚えずにはいられない。時折バランスを崩しそうになる飛葉の身体の重心を、正しい位置に移すように腕を引く他に、世界が自分から動くことはない。相手に合わせるということの意味を、飛葉はようやく知ったような気がした。

「交替だ。俺の動きに合わせろ」

その言葉を機に世界にリードが移る。飛葉は気恥ずかしさを押し殺しながら、世界に身体を預けるように動く。

 右に左に、前に後ろに。世界のステップは正確なリズムを刻み、飛葉はその動きに誘われるままに足を運ぶ。世界の足を踏むことのない動きに満足したのか、

「この感じを忘れるな」

と言う。不意に動きが止められたが、今度は飛葉が世界の胸に衝突することもなかった。

 次にタンゴの練習に移ったが、飛葉はその姿勢に、ワルツを踊った時よりも強い居心地の悪さを感じた。抱きしめるように互いの肩にまわされた手は問題ではなかったが、絡ませるように交差させた足を意識せずにはいられない。

「おい……マジで、こんな踊り方すんのかよ」

覇気のない飛葉の言葉に、

「基本姿勢はな。ボウル・ルームに来ている女たちはおそらくスカートだのをはいてるから、ここまで近づくことはないだろうよ。まず基本姿勢を覚えろ。そうすれば臨機応変な対応ができる」

と、事務的な調子で世界が答えた。

「いいか。さっきと同じように、俺のリードに合わせろよ」

 世界に主導権の全てを委ねた飛葉のステップは、昼間の練習時よりも遥かにタンゴらしいものになっている。時折加えられるアドリブも難なくこなせるようになり、少しは余裕らしきものも生まれはしたが、それが再び彼の鼓動を早めてしまう。

 飛葉よりも恵まれた体格の世界の胸元に顔を寄せているために感じる、微かな煙草の残り香。整髪料の香り。汗の臭いが僅かばかり勝った世界自身の体臭が飛葉の嗅覚を刺激し、それは五感の全てに広がり、官能の残像を鮮やかに呼び覚ます。意識すまいとするほどに身体の中の熾火は熱くなり、身体の内側から灼き尽くされるような感覚は強くなる。掠めるように胸や足が触れ合うたびに飛葉の体温は上がり、鼓動は速度を増す。

 懸命に平常心を保とうとしている飛葉の背が不意に壁に押しつけられ、状況を把握できないままに唇をふさがれた。僅かばかり残る理性で試みる抵抗は簡単に押さえ込まれ、巧みな口づけは飛葉の精神の自由さえも簡単に奪い、気がついた時には自ら世界の唇を求めていた。

「ダンスってのはな、お互いの下心を確かめるために踊るようなもんなんだ、飛葉。さっきみたいに誘うような顔をしていたら、現場でも同じ目に遭うぞ」

 不意に奪われた熱を追うように動く飛葉の頤に指をかけて制した世界が、からかうように囁いた。その途端、飛葉の面に朱が走る。

「だ……誰が、いつ、アンタを誘ったってんだよ!!」

「違うのか?」

「馬鹿なこと、言ってんじゃねー!!」

飛葉の否定の言葉を笑みで受け流すと、世界は飛葉の膝を割っている脚を更に進め

「本当に?」

と、囁く。隠していたつもりの熱を暴かれた飛葉の身体が跳ねる。世界はそれを認めると飛葉の耳元に唇を寄せ、甘い言葉と吐息を絡める。

「タンゴの続きとキスの続き。好きなほうを選べ」

 一瞬身を堅くした飛葉がゆっくりと世界の胸を押しやり、両腕を世界の首にまわす。それから飛葉は、おずおずと瞼を閉じた。

◇◇◇

 世界の肩にかけられている手に力が入り、飛葉の身体が大きく弧を描くようにしなる。空を仰ぐように反らされた喉を唇で辿ると、堪えきれずに甘い吐息がこぼれ、飛葉の膝から力が抜けてしまう。掠れた声で助けを求めるように世界を呼ぶ声に

「大丈夫だ。俺はここにいる」

と世界が囁く。

 今にも崩れ落ちそうな飛葉の身体を支えながら、世界は指で、そして唇で飛葉のしなやかな身体を丹念に辿る。飛葉の全身を苛む熱は、既に限界点に達していることに気付いてはいたが、世界は知らぬ素振りで焦らすように飛葉の肌を慈しみ、一刻も早い解放を求める飛葉は必死に世界の身体に縋りつく。半ば開かれたまま、荒い呼吸を繰り返している乾いた唇を潤すように世界が飛葉に口づけると、飛葉は眉根を寄せ、貪るように世界を求めた。

 思考の全てを奪われ、甘い責め苦に身を委ねるほかない飛葉をスレートの壁に押しつけ、世界はゆっくりと熱を持て余している身体を侵食する。快楽と痛苦の区別さえできなくなっている飛葉は頭を打ち振り、その身を灼き尽くすかのような熱さを振り切ろうとするのだが、彼の意思に逆らうかのように身体は世界を求め、自由に動かすこともできない。

「飛葉……さっきと同じだ。俺に身体を預けるんだ……すぐに楽になる……」

世界はそう囁くと、飛葉の身体を抱きすくめるように引き寄せる。その刹那、飛葉は悲鳴にも似た微かな声を吐息とともにこぼし、全てを世界に引き渡した。

「いい子だ……」

耳元に、吐息と共にもたらされた言葉に、飛葉は悔しそうに抗議の言葉を口にしようとしたが叶わず、切なさと甘さを含んだ声にしかならない。きつく眉根を寄せ、波のように寄せては返す快楽をやり過ごそうとするように、懸命に唇を結ぼうとする。だが世界はそれを許さず、既に限界近くまで熱くなった腕の中の身体を煽るように苛み続けた。

◇◇◇

 かろうじて身体を支えるだけの力しか残されていなかった飛葉の膝が完全に力を失い、世界に身を委ねるように崩れ落ちる。世界は弛緩した飛葉の身体を受け止めると、静かに腰を下ろした。

「大丈夫か?」

答える替わりに飛葉が口づけをねだる。宥めるような、触れるだけの口づけに、飛葉の瞳に柔らかな光が浮かぶ。世界が飛葉の、少しクセのある柔らかな髪を指で梳いていると、呼吸を整えた飛葉が、小さな声で笑い始めた。

「アンタと踊ってたら、身体が保たねぇな」

世界が煙草に火を点け、ゆっくりと紫煙を吐いた。

「なぁ……わざわざダンスを踊ろうって客ってのは、みんな、これが目的なのか?」

飛葉の問に、世界が目を丸くする。

「何だよ。アンタがさっき言ったんじゃねぇか。下心がどうの、こうのって」

世界は何も答えなかったが、その肩は押し殺した笑いのために大きく上下している。

「おい、何笑ってんだよ」

飛葉が世界の肩を揺すると、世界は声を出して笑い始めた。

「騙したな!! さっきのは嘘だったんだな!!」

「お前……例のボウル・ルームに集まる客が何歳くらいか聞いてなかったのか?」

憤懣やるかたないといった表情の飛葉に、世界が笑いながら訊いた。そして

「下心だのはもうとっくになくなった連中ばっかりだ。金と暇はあっても、そんな元気は残ってねぇよ」

と、唖然とした表情の飛葉を抱き寄せ、世界が言う。

「だから安心して、お前にステップを教えられるんじゃないか」

頬を膨らませた飛葉は世界の腕を振り払うと、大袈裟な動作で大の字に床に転がった。世界はそんな飛葉を視界の端にとどめながら立ち上がると、帰り支度を始める。

「おい、帰んのかよ」

「ああ。お前と違って、俺はこんな所で夜明かしする気はねぇからな」

「待てよ。そんなこと、一言も言ってねぇだろ」

「だったら早くしろ。明日も忙しい」

飛葉は勢い良く起き上がると身支度を整え、ドアの前に立っている世界のもとへと急いだ。


ゆふみさんの来阪記念作品。
ももきち経由で入手した
ゆふみさんの妄想ビジョンをアレンジしたものに一部に加筆。
たぶん、オヤジは確信犯(笑)。



いや〜んな飛葉を見る?