誕生日のその日は、熱帯夜―1―
もはや修復が不可能なまでに破壊されたビルを後にした7人の男たちは、次の任務が入るまでの数日間の休息を楽しむために、それぞれの目指す場所へと消えた。世界と飛葉はバイクをガレージに納めた後、飛葉の下宿近くにある銭湯で身体の汚れを洗い落とし、夕食を摂るために最寄りの商店街へと向かう。夕餉の準備の買い物に訪れた主婦たちと、その日最後のかき入れ時の商いに精を出す商店主たちの交わす平和な喧噪の中を抜け、二人は小さな中国料理店に入った。
満州生まれの店主の自慢料理に舌鼓を打つ飛葉が、その健啖ぶりをおおいに発揮する姿を、世界は幾ばくかの料理を肴に紹興酒を傾けながら眺めていると、食事を始めてからというもの、休みなく動いていた飛葉の箸が止まった。
「どうした?」
「ん……俺ばっかり食って、あんた、あんまり食ってねぇみてぇだから……」
飛葉の言葉に世界は、口の端に笑みを微かな笑みを浮かべ、
「酒を飲みながらだと、こんなもんだ」
と答え、春巻きを口に運んだ。
「なら……いいんだけどよ」
飛葉はそう言うと、カニ玉の最後の一切れに箸をつけようとしたが、少し迷ったように箸を止め、朱いあんのかかった卵を二つに分けた。そして一方を自分の皿に取り、残りを世界のほうへ押しやると
「一切れくらい、食えよ」
と、ぶっきらぼうに言った。
「もう一皿、頼むか?」
「そうじゃねぇよ……一人より、誰かと食うもんだろ? こういうのはよ」
「ああ、そうだな。悪かった」
俯き加減に箸で卵焼きをつついていた飛葉は、予期していなかった世界の謝罪の言葉に顔を上げ、慌てて言葉を継いだ。
「そうじゃねぇよ。あんたのせいだって言ってるんじゃないんだ。うまく言えねぇけどよ、なんか……」
世界の視線が飛葉を捉えると、飛葉の言葉は次第に不明瞭になっていく。世界がずっと彼を見ていることは知っていた。その眼差しが慈愛に満ちていることも、飛葉だけではなく、世界自身もこのひとときを楽しんでいることもわかってはいる。だが中国の酒を飲みながらゆっくりと食事をしている世界と、空腹を満たすために次々に料理を口に運ぶ自分のあまりの違いが、いつまで経っても子供扱いされる原因になっているのではないかという思いも否めない。酒に極端に弱い体質のため、世界の晩酌につき合うこともできない飛葉は誕生日を迎えても、世界に追いつくどころか、傍近くに立つこともできない自分にやりきれなさを感じた。だから晩酌の邪魔をするのを承知で料理を半ば強引に勧め、同じ位置に立とうと考えたのだ。しかし世界の穏やかな表情を見ると、そんな子供じみた考えを見透かされているようで、バツが悪くなってしまう。
いつもそうだった。世界は飛葉よりも先を歩いている。任務の時だけは対等の位置に立つことができるのだが、すぐに頭に血が昇ってしまい、考えるよりも先に身体が動いてしまう飛葉や他のメンバーに目を配り、完璧なサポート役を務める世界の姿を見る度に、飛葉は自分の幼さを思わずにはいられない。出過ぎることなく、けれど必要とした時には必ず傍らにいてくれる世界を頼もしく思い、当然のように受け入れられる存在として認められていることを心地良く感じながらも、飛葉は焦燥めいたものを感じるのを止められなかった。
「飛葉、どうした?」
世界が飛葉を見つめていた。先刻まで世界の手元に置かれていた酒のコップを壁際に置いた彼は料理を片付けることに専念していたようで、飛葉が詮無い考え事にとらわれている間に、中央に並べられていた皿のいくつかは、すっかり空になっている。
「あ……人が考え事をしてる間に、何、一人で食ってんだよ」
「一人で飯を食うのが嫌だって言ったのは、お前じゃないか。だから俺はこうやって……」
「ああ、言ったよ。けど、自分だけさっさと食うこたぁねーだろ?」
飛葉は慌てて穴だらけになった卵焼きを平らげると、世界の前の酢豚の皿を占有し、甘酸っぱいあんを絡めた鮮やかな色の野菜と、歯ごたえのある豚肉をたっぷりと自分の取り皿に入れた。
◇◇◇ 勘定を済ませた世界が店から出た時、飛葉は空を見上げていた。世界が飛葉の側に立った時、
「軽井沢の星は、豪勢だったよな」
と、飛葉が言った。
「こっちは街の灯が多いからな」
「あんた、よく星を見てたな」
ゆっくりと歩きながら飛葉が呟く。
「ガキの頃から、一所に長くいたことがなくてな。住む場所はしょっちゅう変わってはいたが、変わらないのは星くらいのもんだった」
世界がついと立ち止まり、夜空に目を凝らす。
「あれが……白鳥座の中心だ。わかるか?」
世界が指し示す方向に飛葉が視線を向ける。
「あの……真上にある、明るい星?」
「そこから四方に十字に広がるのが、白鳥座。七夕の……織り姫と彦星の逢瀬を手伝うお人好しの鳥だ。ところが新暦の7月7日は梅雨の真っ最中で、あいつは随分長い間、お役御免になってるらしい」
「……よく、知ってるな」
飛葉が感心したように言うと、
「サーカスにいた女に、毎年この時期に聞かされた。子守歌だとか昔話の代わりに星の話をする、気のいい女だった。もっとも、しばらくしてサーカスを出ていったがな」
世界は子どもの頃に聞かされたという星の物語をいくつか披露しながら、飛葉はそれに耳を傾けながら家路を急いだ。
◇◇◇ その後、星の話から他の話題に移ったが、それは皆、他愛のないものばかりだった。けれどその全てが胸の中にあたたかい何かをもたらし、任務の間に生じたささくれのようなものを溶かしてゆく。敵と対峙している時に感じるやりきれなさとは異なる、甘さを含んだやるせなさによく似た感情に、飛葉は未だ慣れることができないでいた。全てを分かち合うにようなっていくつかの季節が過ぎたというのに、自分の感情一つコントロールできない現実を口惜しく思い、そう考えること自体に嫌気を覚えることも少なくない。世界と共にいるようになってから身の内に生まれた数え切れない思いや感覚に戸惑うばかりで何もできない、何一つ伝えられない歯痒さは、任務から解放された平穏な時間を脅かすかのように存在を主張する。こんな時、飛葉は母親をひたすらに求めることしか知らなかった子供の頃に戻り、胸に空いた空洞を埋めるように世界に縋りつくことができればどんなに幸福だろうかと思い、その一方で世界から与えられるものと同じ確かなものを与えられる存在になりたいと望まずにもいられない。だが十代の半ばを過ぎた飛葉が無垢で無邪気な子供に戻ることも、世界と対等の位置に立つこともできないことは、誰よりも彼自身が承知していた。それ故に抱えてしまう、暗い熾き火のような行き場のないもどかしさが何かの拍子で燃え盛る炎に変じてしまうのではないかという、漠然とした不安を抱えながらも、今はひたすらに走り続けることしかないことを飛葉は本能的に察知していた。走ることができなくなった時は死神の腕にからめ取られる瞬間だけだということを。そしてそれは飛葉が自ら選び取った運命であると同時に彼の選択によりもたらされた現実であり、それから逃れることが許されはしないのだということも、わかってはいるのだ。
◇◇◇ 堂々巡りの思考に囚われていた肩に不意にもたらされた手の重みに、飛葉が驚いて振り向くと、世界が怪訝な表情を浮かべて立っていた。
「聞いてなかったのか」
「あ……悪りぃ」
申し訳なさそうに肩を落とす飛葉に、世界が赤いリボンがかけられた箱を差し出した。洋菓子屋の名前が印刷された、光沢のある白い紙に包まれた箱と世界の顔を交互に見た飛葉は、状況がわかりかねるといった表情を浮かべる。世界は柔らかな笑みを瞳に浮かべると
「誕生日の祝いだ。部屋に戻って食おう」
と言う。飛葉は世界の言葉に目を見張った。
「誕生日には、こういうのを食うもんじゃないのか?」
飛葉の手に乗せられた白い箱は、外見の愛らしさから受ける印象を上回る確かな重さを伝える。飛葉は世界に礼を言わなければと思った。だが口をついて出たのは
「どんな顔して買ったんだ?」
という、憎まれ口めいた言葉だけだった。素直になれない飛葉が後悔するよりも先に、世界は少しクセのある飛葉の髪を指先でかき混ぜ、
「いつもと同じだ。だが、別に怪しまれはしなかったぞ」
と、笑った。
◇◇◇ 白い生クリームと苺の鮮やかな赤、そしてチョコレートでできた小さなプレートに書かれた誕生日を祝福する言葉が、飛葉の胸を幸福で満たす。飛葉の年齢と同じ数の蝋燭に火を灯した世界が、部屋の灯を消した。ゆらめく蝋燭を見つめてばかりいる飛葉に、世界が声をかける。
「消さないのか?」
「ん……もう少し、このまま……」
心地よい沈黙とあたたかな蝋燭の光が、飛葉の穏やかな表情を更に柔和なものへと変える。世界が飛葉の肩にそっと手を置き
「そろそろ消さないと、ケーキが台無しになっちまうぞ」
と、声をかけた。飛葉は消え入りそうな声で返事を返し、名残惜しそうな表情を浮かべる。そして大きく息を吸い込むと、一気に揺らめく小さな炎を吹き消した。
「誕生日、おめでとう」
世界が静かに言い、掠めるような口づけを飛葉に送った。
「旨いな、これ」
飛葉の呟きに、世界は穏やかな笑みで答える。返事はなかったが、世界が纏う柔らかな空気に包まれたように感じ、飛葉は鼻の奥が微かに痛むのを感じた。それを気取られまいと、飛葉が努めて明るく世界に話しかける。
「おい、世界。あんたも食えよ。旨いぜ、このケーキ」
「甘いものはな……。お前が平らげているのを見てるだけで、俺は満腹になるんだがな」
「何言ってんだよ。こういうのはな、みんなで食べるから旨いんだ。ほら、食ってみろよ」
そう言いながら、飛葉は空になった自分の皿にケーキを乗せ、世界に押しつける。世界は苦笑を浮かべながらケーキを口に運び、飛葉も珍しく甘いものを口にしている世界を眺めながら、ナイフで丸いケーキを切り取りながら食べていた。
「な、一緒に食うと、旨いだろ?」
飛葉の言葉に世界は
「そうだな」
と、短く答えた。
しばらくして、大きな目を丸くして世界を見ていた飛葉が、いきなり大きな声で笑い出した。
「何だ? いきなり」
飛葉はこみ上げる笑いを堪えるために何度か呼吸を整えようとするのだが、その努力は実を結ばない。笑いすぎて痛む横腹を押さえる飛葉を、世界は呆れ顔で眺めながら溜息をつく。
「全く……何がそんなにおかしいんだ」
飛葉は目尻に涙が滲むほどの笑いをやっとの思いで押さえ込みながら、
「だってよ……髭……世界……」
と、途切れ途切れに言う。だが笑いに押さえ込まれた飛葉の言葉は意味をなさず、一方世界は訝しげな表情で笑い続けている飛葉を眺めるしかない。そして飛葉は状況を把握していない世界の仏頂面を再度見ると、更に大きな笑い声を上げ、大袈裟な動作で仰向けに倒れた。掌で目元を覆いながら笑っていた飛葉が次第に落ち着きを取り戻し、世界を手招く。呆れながら飛葉の顔をのぞき込んだ世界の口元で、飛葉の指先が動いた。飛葉は指先に着いた生クリームを嘗め取ると
「着いてたんだよ。髭に……」
と、再び笑い始めた。
「旨かったか?」
と、世界が飛葉に問う。飛葉がニヤニヤと笑いながら頷くのを認めた世界は飛葉の手を取り、先刻、彼の口元に着いた白いクリームを拭い取った指先に舌を這わせた。
「何すんだよ?」
「もっと甘いケーキをいただくだけだ。気にするな」
焦る飛葉を見下ろしながら、世界は落ち着いた声で告げ、唇を重ねる。
「こ……これじゃ逆じゃねぇか。今日は俺の誕生日なんだぜ?」
「悪かった。なら、どうしてほしいのか言ってみろ。お前の望み通りに抱いてやる」
その言葉を耳にした途端、飛葉の耳朶が朱に染まる。
「どうした、飛葉?」
首筋に絡みつく吐息と囁きから逃れようとする飛葉の抵抗を易々と押さえ込んだ世界の手が、飛葉のしなやかな身体を確かめるように滑る。
「何故、黙ってる?」
衣服の下に滑り込ませた手が、熱を帯び始めた飛葉の身体の一点で止まり、飛葉の身体に緊張が走った。
「……ち……ちく……しょう……」
きつく噛まれていた飛葉の唇が、ぎこちない言葉を刻む。
「望みは?」
世界の手が再び動き始めた。
「……あんたに……任せ……る」
彼の意思によるものではない声を堪えながら、飛葉が途切れがちに言う。
「そりゃぁ、光栄だ」
世界は飛葉の両手を戒めていた左手を弛め、飛葉の甘い唇を味わうように口づけた。
◇◇◇ 飛葉の身体に残る無数の傷跡を辿るように世界の唇が移り、巧みな指先が快楽の火種を飛葉の身体の奥深くに埋め込んでいく。今にも暴発しそうな心臓と欲望を抱え込んだまま飛葉は唇をきつく噛みしめ、身体を苛み続けている甘い痺れを必死でやり過ごそうとしていた。しかしその唯一の抵抗が間もなく何の役にも立たなくなることが、身体の中から生まれる熱から感じられる。どんなに抵おうとしたところで、精神と肉体を焼き尽くしかねない熱く激しい波から逃れることはできない。飛葉にとって噛みしめた唇の痛みだけがリアルな現実なのだが、それもいずれは跡形もなく消えてしまう。それでも彼は、それに縋るほかなかった。
「唇を噛むな」
囁きと共に与えられた口づけが、唯一の抵抗の術を飛葉から奪う。
純粋な痛みや苦痛であれば、いくらでも耐えることができた。けれど世界と肌を重ねる時に感じるそれは、官能という名の、溺れる他ない感覚を伴う。甘く脈打つ身体を持て余さずとも、全てを世界に委ねてしまえば楽になれることは承知していたが、飛葉の男としての矜持が、背徳の快楽に溺れることへの僅かばかりの抵抗と強い羞恥がそれをよしとしない。
世界が飛葉の腕を取り、自身の背へと誘う。鍛えられた背にまわした腕に力を込めると、飛葉は世界の全てを受け入れ、そして限界まで追いつめられていた彼自身を解放した。
◇◇◇ 汗に濡れた額に張り付く飛葉の髪を指先で掻き上げながら、世界が言う。
「汗まみれだな」
「誰のせいだよ、誰の」
唇を尖らせ、拗ねた口調で飛葉が答えた。
「風呂場で汗を流すか?」
世界の言葉に、飛葉はたちまち上機嫌になる。
「ただし、水風呂だぞ」
「上等、上等。風邪なんかひきゃしねぇよ」
幼子のような表情を浮かべる飛葉に、世界は思わず苦笑を浮かべ、
「背中でも、流してやろうか?」
と、声をかけた。
「結構だよ。そんなこと言って、ヘンなことすんのは目に見えてる」
飛葉は身を起こしながら言い、さっさと風呂場へと向かう。そして浴室のドアの前で立ち止まり
「けど、あんたがどうしてもって言うんなら、背中を流させてやらないこともねえ」
と、つっけんどんな調子で言葉を継ぐ。世界はタイルに水が勢い良く当たる音を認めると、反抗期真っ盛りの少年の後に続いた。
◇◇◇ 風呂場に足を入れた途端、世界めがけて勢い良く水がかけられた。
「飛葉……お前……」
飛葉は呆れ顔の世界をニヤニヤ笑いながら、見上げていた。軽い攻撃態勢を採っていることから、世界に水を浴びせるために周到な用意をしていたことがわかる。
「水も滴る何とやら……てな」
笑い声をこぼしながら身体を洗っていた飛葉の頭を軽く小突き、世界が飛葉の手から手拭いを取りあげた。
「あ、何すんだよ。人がせっかく汗、流してんのによ」
飛葉の抗議の声に耳を貸す素振りも見せずに、世界は飛葉の背中を擦り出す。驚いた飛葉が振り向くと、
「誕生日なんだろう? 気にするな」
と、世界が言う。
微かな鼻歌が、吐息が感じられるほど近い距離から聞こえてくる。耳慣れた旋律に耳を傾けながら、飛葉は世界の存在を背中で感じていた。
「その歌、好きなのか?」
飛葉が問うた。
「というより、口癖のようなもんだな。曲名も歌詞も知らん。ただ耳が覚えているだけだ」
「そういうの、あんま、こだわんねぇよな。銃だとかバイクとか……ナイフに酒、煙草くらいだろ? あんたが細かいことを気にするのって」
「もう一つあるぞ」
飛葉の背を覆う石鹸の泡を水で洗い流す世界に飛葉が視線で続きを催促すると、世界は両手で飛葉の肩を引き寄せ、
「お前だ、飛葉」
と囁く。
「な……何、言ってんだよ」
飛葉の頬に朱が走る。
「覚えておいてくれ。俺がお前を必要としていることを。お前に必要とされたいと思っていることを……忘れるな」
「逆だよ、世界。あんたは……その……特別なんだ。上手く言えねぇけど……一緒にいたいと思うよ」
背からまわした腕に力を込め、世界が飛葉を抱きしめた。飛葉は空を仰ぐように頭を傾け、確かな抱擁を受け止める。
「俺の誕生日ってのは、まだ有効かい?」
切なさを帯びた甘い沈黙の後、飛葉が世界に尋ねた。
「ああ、もちろんだ」
飛葉は言葉の一つ一つを確かめるように
「あんたが……欲しいよ。世界」
と、言った。
「今? ここで?」
世界の声に、飛葉が頷く。
「また汗をかくぞ」
「すぐに流せるじゃねーか。だから……」
飛葉が身体を反転させ、世界の肩に額を預ける。世界は全身に心地よい重みを感じながら、飛葉の身体を引き寄せた。
テーマは自分の感情に不器用な飛葉。
何に苦労したかって言いますと、
ケーキを食べる件から、絡みに持っていくことでした。
どうでもいいですが、私は食べるシーンにこういうのを絡めるのが好きらしい(笑)。
まぁ、人間の三大欲望の中の二つなんで
それも無理ないかって気もしますね。
一緒にお風呂もできたし、自己満足。自己満足。