ただ一度の…… 解放軍は明日正午をもって帝都・グレッグミンスターに向かい進軍する。トラン城では深夜まで、そのための準備に追われていたが、夜半をとうに過ぎた今では誰もが深い眠りについているのか、石造りの廊下も壁も何かを憚るかのようにひっそりとしていた。
彼が守るべき少年――解放軍リーダー、ティル・マクドールが健やかな寝息をたてるのを確かめたグレミオは、一度失った生を再び手にした奇跡のせいか、目前に控えた最終決戦に緊張しているのか、どうにも眠れなかった。床に就いても眠れないのであればと、グレミオはこの夜で見納めになるであろうトラン城の中をさまよい歩いた。昼間の活気はいずこかへ消え失せ、無人の城のような静寂に包まれているトラン城はまるでグレミオの知らない場所のようで、それでもテラスから一望した湖面の輝きは、湖に浮かぶ古城を本拠地とした頃と変わらない。月の光を蒼く跳ね返すそのきらめきに、思わずグレミオは目を伏せた。
「坊ちゃんはもう、お休みかな」
不意に背後から声がかけられる。
「ビクトールさん。ええ。随分前に」
「いいのか? ティルの側にいなくてよ」
「そのつもりでしたが、もう大丈夫だからと叱られました。明日からの行軍に備えて充分休むようにと」
「アイツ、随分としっかりしてきただろう」
陽気な調子で話しかけながら、ビクトールはティルの成長を寂しげに語るグレミオに歩み寄る。
「そうですね……」
しかしグレミオはビクトールと視線を合わせようとはしない。
ビクトールにはわかっていた。グレミオはティルの成長を嬉しく、頼もしく感じながらも心を傷めていることに。グレミオが不在の間にティルが背負った新たな運命や業や罪を知りながら、何もできずにいる自身に不甲斐ない思いでいることを。そして、それを知りながら気の利いた言葉一つかけられない己が、ビクトールは歯痒かった。
「俺の部屋で、一杯どうだ?」
厨房からくすねてきたという酒瓶をビクトールが示すと、グレミオは苦笑を浮かべる。
「いけるクチだろう? どうせ眠れなくてうろついてたんなら、酒の相手をしてくれても罰は当たらんだろうよ」
「いいですよ」
グレミオが答えた。
◇◇◇ 「しまったな、酒を入れるのがこれしかない」
ビクトールが使い込まれた金属製のカップを示した。
「ま、いいか。お前さんがコレで飲め」
「ビクトールさんはどうするんですか」
「お前さんさえかまわなければ、瓶から直接飲むさ、グレミオ」
言いながらビクトールは酒を満たしたカップをグレミオに手渡し、グレミオも素直にビクトールの提案を受け入れた。
解放軍の酒豪達にこよなく愛されている強い酒を平然とした様子で飲むグレミオにビクトールは驚き、グレミオはテオの部下達との酒宴につき合わされているうちに飲めるようになったのだと答える。とりとめのない言葉を交わし、杯を重ねながら、二人はそれぞれの裡に抱え込んでいる本心から必死で目を逸らそうとしていた。それ故、普段よりもペースが速くなっていたのかもしれない。知らぬうちにひどく酔ってしまっているようにも感じながらも、神経のどこかが氷のように冷え切っている。
乾いた音と共に、グレミオの手から空のカップが滑り落ちた。
「どうした。とうとう酔っぱらっちまったか?」
ビクトールが笑う。
「いいえ、まだ大丈夫です。お代わりをもらえますか?」
床に転がっているカップを拾い上げようとしたビクトールの手に、グレミオの手が重ねられる。
「今、カップを拾うから……」
「いいえ、ビクトールさん。あなたが……あなたに……」
グレミオの緑色の瞳がこの夜初めてビクトールの視線をとらえた。
「酔ってるのか」
「もっと……酔いたいんです……ですから」
ビクトールの手に重ねられたグレミオの掌が力を帯びる。ビクトールは酒を一口含むと、ゆっくりとグレミオに唇を寄せた。
寝台の上に倒れ込んだ二人は無言で互いを求め合う。喉を焼く酒の熱と比べものにならないほどの熱さをグレミオは感じていた。力強い腕と厚い胸に抱き留められた時の激しさからは考えられないビクトールの優しさが、グレミオの胸を締めつける。そして普段の穏やかな笑顔の舌に隠されていたグレミオの激情が、ビクトールの神経を灼く。本心を伝える言葉の一つも口にできず、それでも互いを求め合うことは止められない。それぞれが選んだ道を責めるでもなく、その前途を祝福するのでもなく、ただ心と身体を確かな形でつないでおきたかった。そしてこの夜の、朝が訪れるまでの僅かな時間が二人に残されたただ一度の機会だったのだ。それだからこそビクトールとグレミオは互いを求め、分け合うように与え、奪う。最初で最後の逢瀬を永遠に、それぞれの心に刻む、ただそれだけのために――。
◇◇◇ 乱れたシーツで仮の眠りの中にいたグレミオが瞼を開く。グレミオの身体を抱いたビクトールの胸が、呼吸と共に規則正しく上下する。グレミオは静かにビクトールの腕から抜け出してベッドの端に身を移し、甘さの滲む息をつく。情交の名残は生々しく、触れられてはいない筈の身体のそこここにビクトールの気配が感じられた。
「行くのか」
眠っている筈のビクトールが呟く。
「ええ、もうすぐ陽が昇りますから」
答えたグレミオの髪にビクトールが指を絡める。
グレミオはビクトールの指を取り、静かにシーツの上に下ろした。それから手早く身支度を整えてドアへ向かう。
「それでは、これで……」
ノブに手をかけたまま、振り返らずにグレミオが言った。
「ああ」
ビクトールが答えた。
◇◇◇ ゆっくりと開かれたドアが、同じように閉じられる。既に異なる道を選んでいる二人は、未来につながる言葉を持たない。それを嘆こうとも悲しもうともせず、ビクトールとグレミオはそれぞれの場所へ行くために、再び戦場へと続く扉を開く。その先にある筈の別離を予感しながら……。
臆病な大人二人が酒の勢いで……。
でも、グレミオの場合はこのくらいのきっかけとか、
いるんでないかと思うのよ……。よくよく考えたら、コレってグレミオの誘い受けでした(笑)。 HOME 煩悩水滸伝