知識の崩壊


 災難というものは、いつも突然に、そして予期せぬ形で訪れるものである。地の守護聖を務めるルヴァに、そして次代を担う女王候補として召された二人の女王候補の一人、金色の髪を持つアンジェリークにとっても、それは突発的に生じた不幸な事故だったというほかなかった。

◇◇◇

 飛空都市で行われている女王試験も、二人の女王候補が育成中の大陸の視察に向かう土の曜日と日の曜日には実施されないことになっているため、守護聖はもちろん、女王候補の二人も思い思いに憩いのひとときを過ごしている。時には共に力を合わせて宇宙を導く存在として互いの理解を深め、親睦を図るため、女王候補と守護聖が共に休日を楽しむことも少なくない。ある日の曜日、金色の髪の女王候補・アンジェリークは朝食を済ませるとすぐに、地の守護聖を務めるルヴァの執務室を訪れた。彼女が重厚な造りの扉を軽くノックすると、

「は〜い、どうぞ〜」

と、何とものんびりとした声が扉の向こうから聞こえた。

 彼女が室内に入ると、部屋の主は数え切れないほどの蔵書が納められた書架に囲まれ、静かに佇んでいた。そしてお人好しを絵に描いたような笑顔を彼女に向けて、話しかけるのであった。

「せっかくの日の曜日なのに、執務室まで来てもらってすみませんね。大変な女王試験の毎日で疲れてはいませんか?」

心配性で世話好きな性格の地の守護聖は、慣れない環境の中で試験を受けている女王候補を、何かにつけて気にかけてくれる。不器用ながらも優しさに溢れたその言葉に、アンジェリークは何度も助けられたものだった。土の曜日、大陸の視察から特別寮に戻る途中で出会ったルヴァに、手伝ってもらいたいことがあると言われた時、二つ返事でそれを了承したのも、彼の親切に少しでも報いたいと考えたからだ。

 ニコニコと笑みを浮かべ、アンジェリークの健康を気遣ってくれるルヴァがなかなか用件を切り出さないため、彼女は地の守護聖にその日の予定を尋ねた。ルヴァは彼女を招いた用件をすっかり失念していたことを思い出した様子でポンと手を打ち、ターバンに包まれた頭に手をやった。

「ああ、そうでした。あなたを呼んでいて、肝心の用件をお話しするのを忘れていましたよ。我ながらボケてますね〜」

そう言うとルヴァは全ての壁が書架となっている執務室を眺めなら

「実はですね、この部屋もそろそろ本で溢れてきましてね。書棚を整理するのに、お手伝いをお願いしようと思いまして……」

と言った。

 ルヴァの視線につられてアンジェリークが室内を見回すと、書棚に収まりきらなかったと思われる本が、床のそこここに積み上げられている。また部屋の一角には取り寄せられたばかりだと考えられる書物が詰められた箱が、半ば開かれた状態で置かれていた。

「見ての通り、結構な冊数ですから……」

と、言葉を続けるルヴァは、僅か2日ほどで整理が完了すると思っているらしいが、アンジェリークにはとてもそうは思えなかった。あらゆる分野において豊かな知識を持つルヴァのことだ、おそらく全ての本を分類するだけでも数日はかかるだろう。アンジェリークがそう言うと、地の守護聖は困ったような表情を浮かべて途方に暮れてしまった。床に視線を落として思案顔になっていたルヴァを、アンジェリークはしばらく黙って眺めていたが、自分の不用意な言葉が地の守護聖を傷つけたのではないかと、その胸中は不安で満たされていた。彼女が再びルヴァに声をかけようとするより一瞬早く、ルヴァは名案が浮かんだと言わんばかりの明るい笑顔を彼女に向けた。そして

「それでは、とりあえずひと休みしましょうか。お茶を飲みながら本の整理をどうするか、一緒に考えていただけますか?」

と言った。アンジェリークは限りなくルヴァらしいその提案に半ば呆れながらも、満面の笑みを浮かべてお茶の準備を手伝った。

 香り高い緑茶と美味しい茶菓子が並べられたテーブルを囲み、他愛のない話題をあれこれと話しているうちに、二人はすっかり本の整理という、その日行われるはずの計画を忘れてしまっていた。

 ふと、何かが微かにきしむ音がアンジェリークの耳に入った。最初は気のせいかと考えていたが、再び同じ種類の音が先刻よりも僅かに大きく聞こえたため、彼女は思わず周囲を見回した。彼女の不審な態度に気づいた地の守護聖が、アンジェリークに声をかけるよりも早く、執務室の壁の一角が轟音ともに崩れ落ちた。崩れた壁は二人を襲い、その破片と思われる物がその身体に決して弱いとは言えない衝撃を加える。同時に視界を覆うほどの粉塵が立ち上り、ルヴァの身を気遣わねばならないと思いながらも、金の髪の女王候補は自分の身を守るだけで精一杯だった。

 やがて執務室に静寂が訪れ、アンジェリークは混乱しながらも状況を把握するために周囲を見回した。どうやら崩れ落ちたのはルヴァの背後にあった書棚らしい。しかし部屋の主の姿はどこにも見あたらない。彼女は涙声になりながらも地の守護聖の名を何度も呼んだ。翡翠にたとえられるほどに美しい瞳は涙に曇り、頬には幾筋もの涙が光っている。けれど彼女は必死で床に散乱した本をかき分け、さっきまでテーブルの向こう側で微笑んでいた人を探し求めた。

 ふと耳を澄ますと、瓦礫と化した書物の下から微かな声がした。彼女が数冊の本を取り除くと地の守護聖のトレードマークとなっているターバンが現れた。彼女の助けを借りてやっとの思いで崩れ落ちた本の山の中から這い出してきたルヴァは、大きな溜息をついて独りごちた。

「やはり崩れちゃいましたか」

アンジェリークは彼の言葉が理解できず、首を傾けてその続きを待った。

「やはり通信販売の書棚は強度に難がありますね〜。いえね、女王試験が終われば聖地に戻るわけですから、間に合わせのつもりで自分で組み立てるスライド書棚を購入したんです。ゼフェルとランディが組み立ててくれたのを便利に使っていたんですが、だんだんと可動部の動きが悪くなってしまって、先日、とうとう動かなくなってしまいましてね」

ルヴァの言葉を聞いたアンジェリークは周囲の書架に目をやった。そして先刻崩れたものと同じ種類だと思われる書棚の横板の全てが、撓んでいることに気がついた。あるものは僅かに、そしてあるものは今にも崩れ落ちんばかりに湾曲していることを知った彼女は、地の守護聖の執務室が実に危険な状態であることを知ったのだ。おそらく知的好奇心が旺盛なルヴァが、普通に本を並べるだけではなく、隙間の全てに本を押し込んだためにこの惨劇が起こったのだろう。

「あ〜、アンジェリーク。怪我はありませんか?」

ルヴァの問いかけに、多少の擦り傷はできたけれども大事ないこと、それから汚れてしまった服を着替えるために寮に戻りたいとアンジェリークが告げると、地の守護聖は心から申し訳ないといった表情で謝罪の言葉を述べ、金の髪の女王候補を寮まで送ろうとしたのだが、彼女はぎこちない笑顔を浮かべて、その申し出を固辞した。

 その後、地の守護聖の執務室の書架の整理には年若い守護聖3名が半強制的に駆り出され、金の髪の女王候補がルヴァの執務室を訪れることはなくなった。そして己の過失のために女王候補を危険にさらしてしまった反省と彼女に対する贖罪のために、地の守護聖は以後、毎夜のように金の髪の女王候補の育成する大陸へとサクリアを贈るのであった。


実は本を詰め込みすぎた本棚の横板が重量に絶えきれずに崩壊し、
本が雪崩を打って崩れてきたのは司書の実体験です。
ついつい隙間にも本を詰めてしまう貧乏性が敗因というか原因ですな。
通販で買った安物の本棚ってこともありますが……。


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