霧中の教師像

基督教独立学園を訪ねて
飯泉仁之直



 夏休みを利用し、基督教独立学園(以下、独立学園)を訪ねた。独立学園は山形県の南部、西置賜郡小国町の叶水にある。飯豊山地と朝日山地に挟まれ非常に奥深い山の中の高校である。100歳の現役教師、桝本梅子先生のことがテレビ朝日で放映されたことで独立学園の名前を知る人も多いのではないだろうか。
 独立学園はほぼ全寮制で生徒は全国から集まってくる。学園の始まりは伝導者、内村鑑三の呼びかけによる小国伝導に端を発し「読むべきものは聖書、学ぶべきものは天然、なすべきことは労働」の言葉の下、設立された。設立当初の話は「桝下梅子、一世紀はドラマ」に詳しいので興味のある方は本の方を読まれるとよいだろう。


 独立学園の学校要覧の「基督教独立学園の教育」の項には「深まり行く受験準備教育に抗して学問の基本となるものを学び、社会と人生について深く考える人を育てる」ことを求めてきたと明言されている。もちろん、受験準備がまったくないわけではないが普通高校に比べれば格段に少ないのは事実である。先の項のなかには独立学園の教育の九つの特徴が挙げられている。そのなかでも(1)神を畏れる人を育てる、(4)働くことの好きな人を育てる、この二つに特に深く感銘を受けた。(1)は独立学園の建学の由縁を考えれば納得できる。ここでの神は当然キリスト教に基づくものであり、クリスチャンの生徒も相でない生徒も学園の生活の中でこのことを学ぶ。大部分の高校が大学進学を目標として、その枠の中でどういう教育が出来るかを考えている。しかし、独立学園では盲目的な進学熱にとらわれずに目標をまったく別(本来のものともいえる)のところに置いている。独立学園の目標が優れていると思う点はひとつに「神を畏れる」という目標には終わりと限界はなく、一生涯を通じて目指せるものである点。もうひとつは人間以上の神という存在の前に人間は完全でないことを知り謙虚になることを促す点であると思う。
 (4)働くことの好きな人を育てる、このことの実践は面白い。独立学園では朝、夕に一時間半程度の労働が順番に回ってくる。仕事の内容は畑仕事や牛、豚、鶏の世話、炊事、トイレ汲みなどがある。生徒の本音を言ってしまえば、朝早くからの労働やトイレ汲みは正直、辛いだろう。しかし、生徒は学園の生活が自分達の手で成り立っていることを実感をもって続けていく。強いと思う。 独立学園では農業も行われているがそれだけ特別の労働だということはない。農業という労働も自分らの食べ物を作るためなのだ。他の家事労働、生活のための労働と何ら変わることはない。独立学園の労働を見て気付いたことが二つある。ひとつは、今まで農業は労働や生命の大切さを学ぶことが出来る重要な仕事だと思っていたが、その発想は二次的なもので根源的にはそんなに肩の力が入ったものではなく、誰でも行うものなのだと感じた。もうひとつは農業だけを重視していて、ほかの生活に必要な労働に気が回っていなかったことである。別の言葉で言い換えれば、ものごとを分類し細分化していく近代科学の思考の枠組みの中にいる自分に気付いたということだ。神という存在、労働、自然はいずれも根源的なものである。人間が生きている間は関係を断つことは出来ない。独立学園の教育の特徴は、人間の造ったもの以上の根源的存在に目を向ける姿勢にあると言えよう。



 質素な食生活もまた独立学園の特徴である。私の滞在したときの朝食は学園の牛から搾った牛乳、キュウリのスープ、ご飯、学園の畑のミニトマトとなすの浅づけ、人数が少ないときだけという目玉焼であった。牛乳は低温殺菌されているが時間が経つと分離、ヨーグルト化する見事なものだった。先生の中には信仰上の理由から一日二食の人も多かった。
 独立学園では生徒は学校の方針の大筋に反しない限り何でもやりたいことが出来る。普通、高校でこういうと結局は何も出来ないことだが、独立学園は違う。例えば、自分の育てた麦からパンを焼くこともできる、ぶどうを発酵させてワインをつくることもできる(これはアルコールのため、だいぶ問題になっていた)。独立学園のスケールの大きさを感じる。


 独立学園の雰囲気は「澄んだ厳しさ」と呼べるものだと思う。非常に静かなのだが力強く、生命力にあふれる、そんな様子だ。それは質素な建物や生活様式と先生方の求道的な様子、そういったところから醸し出されるものだと思う。こうした雰囲気の独立学園でも一般の学校で起こるようなけんかや飲酒といった事件は起こる。ただし規模も質も比べようがないほど微々たるものだが。しかし独立学園では問題を微々たるものとせず、教師の間で教師と生徒の間で熱心に納得のいくまで議論がかわされ、対処しているため今の状態を保っていられるのだろう。


 独立学園を訪ねる前、私は迷っていた。そのころの私は教員という職業の困難さ、辛さばかりが目に付き、学校という巨大な構造の中で生徒も教師も疲弊しきっている、という印象が深く心に根ざすようになったからだ。学校という構造にどうかかわっていくかすっかり迷ってしまったのだ。そのため打ちのめされてしまった心を何とか活性化したいと思った。それが独立学園を訪ねて理由である。私の兄が独立学園の卒業生であり、大学でも何人か学園生の友人がいて、私には身近かに感じていたことも理由のひとつであった。独立学園を訪ねた結果は学園も様々な問題を抱えていて、その意味でけして特別な学校ではない。だが、問題以上に先生方の間でこれから学園をどうしていくのか、生徒にどのように接していくのか議論がかわされ続けているのである。規模の小ささも利点となり、学園全体としてよい雰囲気を保って運営されているのである。


 学園に滞在している間に学園の先生方の話合いを聞く機会を得た。ノルウェーに長期滞在し、専門学校に近い構造をもつフォルケホイスコーレという独特の学校を見てきた先生がその内容を紹介し、いかに学園に取り入れるかという話合いであった。今の時点でも独立学園は相当確立された学校だと思う。それでも現状にあぐらをかかず、もっとよい学園を目指そうという真摯な雰囲気がある。独立学園では学校の原点と同時に非常に洗練された学校のひとつの形を見た思いがする。
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