島に暮らす人間達〜その2〜
(次号へつづく)
泉川功一郎




沖縄県 渡嘉敷島の教育実習まで
 昨年の夏、沖縄を旅した私は離島の魅力にすっかりとりつかれてしまった。私はどうしても、沖縄の離島で教育実習をしてみたいと、島の学校で子供達と接してみたいと思い、早速教育研究科の先生のところへうかがった。私の気持ちを思いの丈つづった文章を先生に渡し、教職の先生方が集う審議会にかけていただいたのだ。筑波大学では基本的に付属の中高でしか、教育実習を行えない事になっている。母校でやりたい場合は特別の理由を添えて認めていただく。一体、母校でやりたい思いに理由も何もなかろうと思うが、それこそ、ここが文部省大学と呼ばれ、管理教育の行きとどいている事のゆえんではないか。だから、東京出身の私が沖縄で実習をすることがいかに困難かは、理解できよう。しかし、いかに困難でも『本当にやりたい』という夢や希望を思い続ければ、それは必ず実現するという事ではないか。審議会が駄目でも、本部棟でもどこでも乗り込んで勝ち取ってやる、それでもどうしても受け入れられなかったら、こんな大学は辞めてやると私は本気で考えていた。『理屈ではなくその思いが伝わったのか?』、審議会で揺れに揺れながらも、特例中の特例で私は認めて頂く事になった。
           
美(ちゅ)ら海、美(ちゅ)ら島
 渡嘉敷島は沖縄本島から南西にフェリーで2時間、世界有数のサンゴ礁に囲まれた慶良間諸島の中の1つだ。夏はダイビング客でいっぱいになるが、それ以外は豊かな山に包まれとても静かな島である。そしてこの島は平地に乏しく、ほとんどを山地が占めているため水に恵まれ、沖縄では数少ない米の二期作地域になっている。
沖縄の自然と人に触れて、私は自然の美しさと同時に神秘さを体験する事ができた。沖縄の海の色、魚の色、花の色、木の葉の色は、どれをとっても、赤なら赤、青なら青という非常に明るくはっきりとした色彩で、花でも何でも大きさや形が自己主張旺盛でエネルギッシュである。私は沖縄のそうした自然に魅了されながらも、花の色や態度に沖縄の人間の色や形が映っているように思い、そんな自然と人間の一体感が不思議でならなかった。そして、漁師のおじさんによると、魚があんなに鮮やかなのは、青い海の中だと補色になって(赤と青が混ざって黒くなる)外敵から身を守れる事や、サンゴは満月に産卵する話、タコはサンゴの中でサンゴの形に変身する話などいろいろうかがった。この島にきて、本当に自然は美しくまた神秘に満ち溢れている事がよくわかった。実習中も面白い話を仕入れては、生徒たちにこれ知ってるかと授業で話したりした。
 私はこの島で漁師の人達、農家の人達、島の歴史に詳しい博物館長など様々な人達に出会い学ばせて頂き、この島の魅力にせまる度に、この島は教育の場として本当に恵まれていると思った。(わくわくすることばかりだ)しかし同時に、学校現場では私の理想とかけ離れた様々な矛盾にぶつかり、教育とは何なのか本当に考えさせられた。 

理想と現実の狭間で
 私が訪ねた渡嘉敷小中学校は、小中合わせて50人程度、中学は1学年8〜10人と非常に小さな学校でした。私は中学1、3学年の社会科と2年の道徳と学活の授業を受け持つ事になった。それから、2週間に一度の愛汗授業(畑作業を小中みんなでやる)を1日受け持った。 私は2週間子供達と関わる中で、とにかく1つだけ目指していた事は『この21年間の自分を語り尽くす』という事だった。私の中学時代、音楽の先生と歌との出会い、私の夢などいろいろ話した。そして全4号に渡る『響きあい』という通信を配った。その名前は『学ぶとは自分を語りあい、響き合う感動以外にありえない』という私の信念からとってつけた。1号では自己紹介を2号では『学問をもっと楽しくしてゆくために』という題で3号では私の故郷(東京の下町)についてそして4号では『10代は人生の原点』という題で自分の10代を語った。愛汗の授業では何とかして土の奥深さを伝えようと雑草の土着菌微生物と砂糖を利用した堆肥造りを試みた。そして歌と楽器好きの私は授業や学活の時間の始めに民俗楽器を鳴らしたり、ギターで歌を歌ったりした。
 しかし、果たしてどれだけ私の思いが伝わったのか、私は自信を失いかける程、渡嘉敷の中学生は本当におとなしかった。先生方もそれに悩んでいるようだった。今でもそれがなぜだったのか、理解しきれずにいるが、私の予測では、その1つは子供達を取り巻く家庭や島の環境に原因があろうと思う。子供達は少ないうえに、島中方々に散っていたり、家庭の都合上外から引っ越してきた子が多いために、学校外での子供達のつながりが希薄である。もう1つはそうした子供達のつながりを作る場である学校が非常に管理的な教育を実践している所にある。朝の校門の前での挨拶当番や部活の全員参加、昼休みの畑の水当番など子供たちはやらなければいけない事に縛られている。さらに、もう一つ挙げるなら、子供達も教師達も自然の豊かな島に暮らしながら、都会指向の価値観に染まっている事だ。彼等の多くは週末を那覇の都会で過ごしている。職員室でも図書館でも家でも、誰もがパソコンやゲームに励む光景は私をがっかりさせた。

私を勇気づけてくれた小3,4栗野学級の子どもたち
 学校のそういう空気の中、私は時々職員室を抜けて宿直室にいったり、昼休みは気晴しに歌を歌いに音楽室へいった。『泉川先生、歌おう』と入ってくる小学生達に太鼓やタンバリンをもたせて、私のギターにあわせて、いろいろな歌を歌った。子供たちが体全体でリズムを取って、喜びを表しているのに感動して(リズム感は練習して覚えるんじゃない。楽しいから体が動き出して知らぬうちに身につく)、『ああ、これだなあ』としみじみ思った。僕たちの歌を聞きつけて何人かの中学生もはにかみながら、楽器を手に取った。小さな響きあいは仲間をひきよせ、波紋は大きなうねりとなっていく。
 放課後、小3、4学級の栗野先生が子供たちの日記を私にみせてくれた。どの子も『今日は昼休みに泉川先生と歌を歌い、、、』とつづってあって、私は本当にうれしかった。中学の実習生である私が、小学生とこんなに響きあえたのは何とも皮肉だが、彼等に私は本当に救われた。再た自分を取り戻しがんばろうと思えた。 
(次回へつづく)

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