環境有機農業論の波紋


エンパワーメント

 1学期におこなわれた授業「環境有機農業論」は、いろいろな意味でエポックメーキングとなるものであった。まず私自身がその授業をやっていく中でエンパワー(自分の中にある潜在的な力が引きだされること)されたと実感できたことは、とても幸せなことである。幸福とはなにかということを一概にいうことはできないが、創造的に生きることができたとき、私は幸福を実感する。ことしの「環境有機農業論」はとても創造的なものであった。この授業を受けた学生のレポート(この授業を受講してあなたが学んだこと)を読むと、この授業という場でなにかが創造されたということが伝わってくる。今回はそのレポートの一部を紹介し、読者の皆さんと「授業・環境有機農業論」を共有したいと思う。

この授業から私が学んだこと

秦 さやか

 この春から環境科学研究科で学びはじめ、いろいろな講義を受講する機会にめぐまれたが、私がもっとも多くのことを学んだと感じたのはこの授業である。
 第一に学んだことは、人間は本来愉快に暮らさなければならない、ということだ。大学の講義も農業も日常生活も、すぺて愉快であるぺきだということ。愉快に暮らせなけれぱ心も体も健康な状態とはいえない。また愉快であるためには創造的でなくてはならないということも知った。決まりきった型わくの中にほまっていたのでは、創造性ほ生まれず、ユニークにもなれないということである。
 これまで有機農産物は私にとって化学物質を使用していない安全な食品という意味しかもっていなかった。しかし有機農業は今までの農業と同一線上にある農業形態の一つなのではなく、まったく違う「思考の枠組み」をもち、そこに「生き方」という思想をひめた農業であり、哲学であるということを私ははじめて知った。
 私はこの授業を通して、いままで私のもっていた間違った認識や既成概念を打ち砕かれ、新しい世界を知らされた。これまで感じてきた近代社会の行きづまりに対する危機感と、それに変わる新しい生き方を示唆されたことで、自分の頭の中で漠然としていた思考をはっきりと明確化することができたように思う。先生の言葉は一つひとつが的確に、そして真っ直ぐに私の耳につきささってきた。
 私はこの授業で展開された思想や原理をまったく受け入れることができた。しかしここで私の中に新しい問題が生じてきた。有機農業とそこにある哲学を自分自身が実践できる自信、勇気がないということである。ほんどうの有機農業がどのようなものであるかを知れば知るほど実際に行なうことの難しさと、多大なる覚悟が必要なことが明自になってきたのだ。いずれ有機農業的生き方が必ず必要になってくると私は考えているが、その一方で私自身のライフスタイルをいかに転換するかが重い課題となっている。

グレゴリー・ケイ

 学ぷということは一方通行ではなく、会話と同じようにgive and take(双方向)が必要だし、授業が盛り上がらなければ長く続くはずがない。日本の大学の教室では先生も学生も重い気分で授業が進められている。先日ある授業でつまらない授業をすすめていた先生が「もうちょっと我慢してね」といって学生たちをはげました。つまらないものを教えなくてはいけない先生と、その講義を聞かなけれぱいけない学生が同じ教室て学んでいてもまったく盛り上がらない。みんなが考えていることは一つだけ。「授業がいつ終わるか」・・・・・。
 環境有機農業論のとき「授業がいつ終わるか」という気持ちを感じたことはなかった。有機農業に関心をもっている学生と先生が一緒に集まって、共感しながら共に学ぷことができた。
 この授業から私は「やりたいことを学ぷ」ということを改めて学んだ。これはいまの大学にしても高校中学にしても忘れられている原理である。大学教育にしても他の学校教育にしても、つくられた「象牙の虚塔」から一度はなれて、ほんとうに学びたいことを学ぷ、そういうものにならなくちゃいけない。

伊東 智弥

 僕は農学部出身なので正直なところ、はじめはこの「環境有機農業論」の授業内容があまりにも型破りなので疑問を感じていた。「土の問題」の授業のとき、橘先生は僕にこう聞いてきた。「土壌とはなにか、説明してください」その問いに僕は教科書的に答えたのである。それに対して先生はこう言い放った。「・・・う・う〜む、そ・そうなんだけど、それしやつまんないんだよ」と。そのコメントに僕はハッとした。それまでの僕はいままでの知識を単にアウトプットしていたにすぎないというこどに気づいたのであった。そしてこの授業で求められる意見は、既成概念や固定概念にとらわれず自由に自分が感じたままを発言すればよいということである。それ以後は自分の持っている知識を並ぺるのではなく、自分の考えを自由に表現できるようになり、とても気持ち良く授業時間をすごすことができるようになった。このことほこれからの自分の生き方や研究のあり方を考えるときとても大きな示唆を与えられたように思う。


西川 迅

 8月のはじめに種をまいたキュウリが発芽し、そしてすくすく育っている。この授業での私にとっての一番の収穫は、とりあえずほ自分で農業というものをやってみようという気持ちになったことだった。ほんの小さなスタートだけれど、自分の中ではちょっとした自己変革かもしれない。
 種をまいてからというもの、その成長が気になってしかたかない。太陽が出たり、雨が降ったり、風が吹いたり、そのたぴに自分が育てている作物のことが気にかかってしまう。まだ芽が出たばかりで、収護があるかどうかもわからない。それはこれから私がどう接するか、また自然の風向き次第だろう.しかしこれもやってみないことにはわからないから、試行錯誤の操り返しだ。やれるとこまでやってみようという心境である。


後藤 厳寛

 まずはじめに、この授業を受講するまえ私は正直なところ有機農業なんて別世界のことだと思っており、疑いの気持ちを持ちながらあえて受講したことを告白する。
 しかし実際にこの授業から受けた「学び 知る 喜び」は、私にとって他のいかなる授業とも比較にならないほど大きかった。この授業を通して掌んだことすぺてが決しておおげさな言い方ではなく、20代最後の歳に私自身のライフスタイルを修工するのに必要だったのだと心から確信している。
 この病んだ社会において官津賢治や有吉佐和子が自分の全生命をかけて伝えようとしたことをしっかりと受けとめて実行し、私の周りにいる人たちに伝えていこうと思う。


松村 陽子

 12回にわたる授業の中で私にとって一番印象深かったことは「わら一本の革命」について私が書いた感想文をめぐってのやりとりである。
 「なるぺく資源を使わす、また環境を汚したり、誰かに苦しみを与えたりせずに、こころ静かにゆっくりとみんなが生きていけたらどんなに幸せなことか。けれども現在の社会のおかしなところを変えていこうとすると、結局忙しく動きまわざるをえなくなる」このようなことを書いたのだが、書いているうちになんだかものすごく暗い気持ちになっていった。何かしなければという気負いとあせりだけが先にたってもがき、がんじがらめになってしまうのだ。杜会の矛盾に異議をとなえて預張ってきた人は今までもたくさんいたにもかかわらず、世の中の大きな流れほ変わっていないように私には見える。
 「よくなるために悪くなる」(注)と橘先生は言うが、けれどもほんとうによくさせることができるのだろうが。
 そのような児縄を解き放ってくれたのは、授業の中で何回も繰り返しいわれた「楽しく生きよう」「創造的になろう」という言葉だった。「何をすぺきか」ではなくて、「何をしたいか」ということから始めればいいのだ。こう思うようになってかなり気が楽になることができた。
 いまの私にはどういう杜会をのぞみ、どうつくっていきたいのか。そのためにどう構想し行動していきたいのか、まだはっきりとは見えていない。けれども「なにかを創造していきたい」という気持ちだけは持つことができた。それがこの授業を受けて私が得た一番大きなことである。
(注)
良くなるために悪くなる
自然はよくなるという方向性をもっている。一見して悪いように見える現象もじつは浄化作用なのであって解毒のプロセスをへてよくなっていく。


ライフスタイルとしての農業

 私がこの授業の中で一番言いたいこと(伝えたいこと)はライフスタイルとしての有機農業ということである。「環境にやさしい良業(環境保全型農業)」といいながら、農業や化学肥料を使い続けるのはダブルスタンダード(2枚舌)なのであって、そのような欺瞞的農法は必ず破綻する。ある農業者が農業のどのような技術を逮択するかは、まさにその人の生き方そのものをあらわすものだし、私がライフスタイルとしての有機農業という意味はそこにある。
 日本の有機農業運動の生みの親ともいうべき一楽照雄は、晩年訪ねてくる若者に「いまの生活は楽しいか」と問いかけたという。世間的な(俗物的な)価値観に惑わされず、自分としての楽しい人生を生きることが何よりも大切なことてあり、有機農業をやることのほんとうの意味はそこにあると一楽はいいたかったのだと思う。有機農業がいいことだからやるということはもちろんありうることだが、有繊農業をやることそのものが楽しくなけれぱ意味がないのだ。それは仕事にしても生活にしても教育にしても、あらゆることにいえることではないだろうか。
 自分自身がしっかりとした基準(方向軸)をもって、自分自身の生き方を決め、正しく生きるということはとても難しいことである。だから教育というものがあるのではないか。絶対的な基準などというものはありうるはずがないし(あってはならない)、絶対的に正しい生き方もない。すぺては時代とともにうつろいゆくものだし、相対的なものなのだ。そうであるからこそエンカレッジメント(勇気づけ)とエンパワーメント(だれでもがもっている能カをひらくこと)が必要なのであって、教育の意味はそこにある。教師と学生の関係も相互的、相対的なものであって創遣的な関係を結ぷなかでお互いに向上していくものである。私のめざす教育のスローガンが「双方向性」「創造性」「向上性」といっている意味はそこにある。
 環境有機農業論はことしの場合、カレンダーの都合で1学期中には9回分しかとれなかったのだが、受講生がもっとやりたいということで結局12回やることになった。学ぺば学ぷほど学びたくなる。ほんとうに学ぷということはそういうことではないだろうか。ことしの環境有機農業論をやって、教師としていまほど誇りを感じたことはない。いまの混沌とした状況のなかでも(であればあるほど)教育の可能性をひらくことができるし、そこに希望がある。
 今の日本人の何が間題なのかと言えば、何事も中途半端て不完全燃焼症侯群におちいっているということではないか。中途半瑞にやるくらいならやらないほうがよい。どうせやるなら思いきってやってみよう。思いきりやった爽快感を身体で感じた者たちが、新しい時代をひらいていく。
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