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徒然なるままに書き綴った

22歳の私から、現在を生きる皆様への手紙



 あるときふっと文章を書きたくなる瞬間に出会う。22歳の自分が思っていることを、大学を卒業する前に整理してみる気になった。自分の思いを確かめ、今の自分、そしてこれからの自分に対して文を綴っているうち、自分の思うことの中に、ぜひとも他の人にも伝えたい部分があることに気付いた。そのような気持ちからこの文章を書きました。22歳の私から、現在を生きる皆様へ、お手紙をお送りします。



 「善い」あるいは「良い」と思ったことは、たとえ反発を受けても人に薦める、逆に人がしていることで「悪い」と思ったことは、これまた反発を受けてもやめてもらうまで説得を続けて頑張る。これが自分のやり方です。
 自分は人を見限ることは嫌いです。「もういい。勝手にしろ!」とは、どうしても言えないのです。どんな人でも、心から訴えられると考えを変化させる可能性を持っている、自分はそう信じたい。
 けれども時には、自分の思いがなかなか相手に伝わらない時もある。その時にけっして「捨てぜりふ」をはかず、根気強く、粘り強く、相手がわかってくれるまで可能性を信じ続ける。そのことを自分の中では大切にしています。
 けれども間違えて欲しくないのは、相手に理解してもらうために、例えば暴力的手段、あるいは法的手段のように無理に屈服させるやり方では、相手が心から考えを変化させたことにならない。相手に本当に大切なことを訴え、受け入れてもらうための手段は、「対話」による心からの説得、そして「自分の行動を見せる」こと以外にないと思う。当り前のようなこのことが、今の世の中で意外にされていない。むしろ暴力的、法的手段で人を支配、管理するやり方の多いことが、自分にとっては残念でならないのです。


 人と人との関係は、本来理屈では説明できないと思う。まして血を分けた家族の中の関係を理屈で説明することには拒否反応を覚えてしまう。「家庭における父親の役割」「夫婦の上手な付き合い方」というようなことが近ごろ論議されていることを変に思うのは自分だけなのだろうか。夫婦が互いに愛し合い、親が子を愛し、子が親を愛することは当り前ではないか。
 一体何が言いたいのかというと、本来人間は心の奥深くで互いに通じ合っているはずだということなんです。物に満ち溢れ、社会が組織化され、人どうしが経済力や地位や身分で区別されている現代、物や事象はおろか、人の行動パターンやあらゆる人間関係まで全て言葉で定義づけて説明しないと済まない世の中になってしまっています。
 人と人が心から通い合う感覚を、自分も含め現代人は忘れている様な気がする。何がしかの大義名分を持って戦争を起こすことも、法律によって人を裁くことも、いちいち理由を設けないと人と関わっていけない、社会を保てないことの現れではないかと思うのです。


 太古の人間は、現代人よりもずっと心が通い合っていたことでしょう。テレパシーなんかもしていたかもしれない。自分も他の人も、「同じ人間」であり、「同じ動物」である、ただそれだけの関係だったのだから。
 そして、森の中でたくさんの動物や植物たちと暮らしながら、研ぎ澄まされた野性の感覚で、生きぬくためには何をやっていいのか悪いのかを体で分かっていたことでしょう。
 けれども今の人々に野性的な感覚が全くないとは思いたくない。人間の持つ動物としての根源的な何かが、今を生きる全ての人々の心の中に、数百万年という時を経て延々と受け継がれていると信じたい。
 現代のように、人間が自然界から逸脱して巨大なシステムの中に身を投じている時代であっても、人と人が本気で向き合い、語り合い、時に反発し合い、互いに各々の生き方をさらけだすことで、必ず心が通い合うのだと思う。誰しも人と接していく中で、感動したり衝撃を受けたりすることは人生に幾度とある。その一つ一つを大切にすれば、戦争も、互いに憎しみ合うこともなくなる気がするのです。


 話を始めに戻します。「善い」あるいは「良い」と思うことを人に薦めたり、「悪い」と思うことをやめさせるために人に説得をすることは、とても勇気がいる。なぜなら「善い」「悪い」という確信が自分になければならないからです。それはとても難しい。
 自然と一体になって生活をしていた太古の人間には、本能的にすべきこととそうでないことが身についていた。けれども自然界から逸脱し、高度な文明の中に身をおく現代という時代で生きるためには、いちいち善悪の判断を身につけるためのしつけや教育を、幼い頃から受けなければならない。野性味が薄れた文明人ほど、「人間教育」が欠かせなくなっているように思う。
 残念ながら、今の社会に「人間教育」がなければ、犯罪が増える一方です。形式やたてまえでの人間関係が多い社会で、心からの人と人との結びつきが希薄になり、人間一人一人の存在価値が薄らいでいくという危機を何とか抑えようとするには、他人の気持ちを理解し、他人の痛みを感じ、そして自分自身を尊重する力を養う人間教育を受け、善悪の判断を身につけなければならないと思うのです。


 今の自分が持つ善悪を判断する力は、幼い頃からの両親のしつけや教師の方々の御指導の賜です。様々な誘惑に満ちた世の中に生まれ育った自分に、物事の善悪を見極める目を育ててくれたこれらの方々には大変感謝しています。
 ただ残念ながら、自分の身につけた善悪を判断する力は、今の高度文明に支えられた人間社会のシステムの中での善悪の価値に基づくものでしかないということを、やっと最近感じるようになりました。
 わざわざ教えられなくても、人と人とが心からふれあえる世の中を本当は作らなければならないのですが。それはどういう世の中かと言えば、頭でいちいち考えなくても、言葉でいちいち説明しなくても、互いの心が通い合い、生きていかれる世の中だと、自分は思うのです。


 教えられたわけでもないのに、いつのまにかできるようになっていた、という例がよくあります。幼稚園児の頃、エレクトーンを習っていた兄が弾いているのを見ているうちに楽譜がよめるようになり、まねして鍵盤をいじっているうちに楽譜をよみながら弾けるようになったことがあります。さらに曲のこの箇所では柔らかく弾く、ここではするどく弾く、どこでどのくらいの音量で弾くといった感覚を、いろんな曲を弾いているうちに体が覚えていったことを記憶しています。音楽の先生から直接指導されたわけでもないのですが。
 歌うときもそうです。綺麗な声を出すためにああしなさい、こうしなさいという技術書は溢れんばかりにあるのですが、頭で理解して歌おうとするとなかなか自分の身になっていかない。それよりも下手でも何でもいいから何度も声を出して歌を歌ってみる。そうしているうちに体がコツをつかみ、歌うときの感覚がついてくる。そうした感覚が養われてから始めて理論を学び、ああ自分の今の歌い方ではこの辺を改善すればよいのか、というように納得し、本当の意味で自分の身になっていくのです。


 やっと自分に関わりの深い農業の話にたどり着きました。農業も同じだと思うのです。あれこれ方法を教わるよりも、まず自分の力で失敗してもいいから作物を育て、体から覚える感覚、ここで言うなれば農的感覚というようなものをつかむことが大事だと思う。それから始めて農学の理論を学ぶべきなのでしょう。
 本当に農業生産を研究する学者ならば、まずなによりも先に自分で農作業をしてみることです。何年かかるか分からない、とにかく続けているうちに農的感覚が養われ、ある日ふっと疑問、ひらめきといったものが頭をよぎる。その時こそ疑問を解き明かし、ひらめきを実証すべく科学的な検証を行うべきなのでしょう。
 普及員や農業指導員ならなおさらです。本当に農家に技術指導をするためには、自分でもその地域で農業をし、その地域の風土を身を持って感じ取るまでにならなければならない。そうすることで、心身ともにそこに住む農家と同じ立場を共有できる気がする。
 海外で農業技術の援助にたずさわるとき、その地域の風土に溶け込むまでに農作業をし、現地の人と生活を共にして本当に心が通い合う仲にまでならなければ、何年かかっても援助活動はできないと思う。国境を越えて住んだことのない土地へ農業技術の援助に向かうことは、それほどの覚悟がいることと自分は思うのです。




 なんとも好きかってに書きたい放題してしまいましたが、これで心おきなく卒業できます(なんと手前勝手な…)。今年一年、全ての皆様に等しく幸せが訪れることを、心からお祈りいたします。
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