シリーズ第24回 有機農業を読む

「シュタイナー教育入門」高橋巌 角川選書



有機農業とシュタイナー

 有機農業の歴史を語るとき、デカルトの方法序説(1637年)をひとつの区切り(エポックメーキング)とすることにしています。「有機農業は江戸時代の農業か」といわれるとムッときますが、都会のこどもは野菜が工場でつくられていると思っているのだから仕方のない面もあります。有機農業というものが化学把料や農薬を大量に使う近代農業の反省から生まれたものであるということは、ものごとをきっちりと理解しようとするならすぐわかることなのですが、そこまで考える人は少ないのです。
 ところでデカルトを説明するためにはガリレオ・ガリレイにふれないわけにはいかないし、ガリレオにふれるとコペルニクス、コペルニクスにふれるとルネサンスにふれたくなるし、ルネサンスは十字軍のエルサレム遠征を抜きにば語れない。そしてョーロッパから出かけていった十字軍の若者達がみたもの、それが東西文明の顧合、ヘレニズム文化であった。ということになってしまい、デカルトで区切るつもりが切りがなくなってしまうのが落ちということになります。
 ルドルフ・シュタイナーは最近でも「賢治の学校」の鳥山敏子が熱心に紹介していますから、日本でもかなり知られるようになったけれども、難解な人です。なぜ鱗解かといえばシュタイナーは「科学合理主義の人」ではなく、「オカルト的神秘主義の人」だからということでしょうか。高椅巌にいわせればシュタイナーはヘレニズムの思想の継承者であるということですが、有機農業にしろ、シュタイナーにしろ「科学合理主義」だけでは解けないような気がします。


シュタイナーの紹介者

 シュタイナーの日本での紹介者として有名なのは子安美知子です。私の手元にもある「ミュンヘンの小学生」(中公新書)は1975年に初版がでていますが大ベストセラーとなり、一躍シュタイナーの名を日本にひろめるきっかけをつくりました。それまでシュタイナーは日本では無名の人でした。しかし早くからシュタイナーに注目していた人がいました。それが「シュタイナー教育入門」の著者高橋巌です。


高橋巌とシュタイナー

 高橋巌は慶應大学文学部教授の職を得ていましたが、1973年43才の若さでその職を辞し、シュタイナーの著作の翻訳に専念します。シュタイナーは日本で言えば、出口王仁三郎のような人であったから彼の発言はすべて側近が書き取っていたとされています。それは500巻にものぽる言行録となっていてシュタイナーの研究者にとっては汲めどもつきぬ宝の山であり、高椅は若いときにそれに魅せられてしまったのでしょう。
 シュタイナーを紹介するのはむずかしいことでず。シュタイナーが論じたジャンルはたとえば医学とか、自然農法とか、建築とか教育とか音楽とか絵画とか、あるいは天文学とか歴史学とかあらゆる方面にわたっていて、彼が宗教と芸術と科学の統一をめざしていたことはまちがいありません。シュタイナーの思想のおもしろいところはそのまま受け売りすることはできないというところです。シュタイナーには教条はない。したがって教条主義もない。彼の文章は一見矛盾だらけで完桔していないので、どうしてももう一度咀嚼し、自分の言葉で表現し直さないといけないのです。しかし常に暗示的であり、刺激的なので、現代の学間の水準に照らして、もう一度自分で勉強し直して、自分の中に確信が出てきたときに話すと、すごく新しい思想になって人に伝わるという形をとると高椅巌はいいます。


教育のモデル

 農業もむずかしいけど、教育ほどむずかしいことはないのではないか。農業には自然というモデルがあるが、教育は一体なにをモデルにしたらよいのか。日本では幕末・明治維新の松下村塾における吉田松陰とそこからキラ星のごとく輩出した門下生の例があげられます。同様のことがギリシャ時代のアテネの教育でもあり、ギリシャ教育のもっとも本質的な部分は「体育教師が子供を教育する」という点だとシュタイナーは言っています。これはシュタイナーの人間観からくるもので園芸家が植物を栽培するときに根の手入れをしっかりしていれば、その植物はおのずと葉を広げ、花を咲かせ、豊かな実を拮ぶ。将来その子供の中から本当に美しい、本当にすぐれた霊的能力や魂の素質が花を開かせるように、その根や土壌にあたる肉体とその環境を調和的に美しく整えてやること。それが教育の仕事であり、教育者のなすべきことなのだというのです。
 結局シュタイナーのめざしたことは「無意識の教育」ということで、これは職人の世界とか武道や芙術の世界にも似ています。農業技術も本来そういうものとして伝えられてきたのではないでしょうか。


シュタイナーの教師像

 シュタイナーはまず教師としてとるべきでない態度として「杓子定規に細かいことをつっついて、この態度は正しいとか正しくないとか、この考え方は厳密であるとかないとか、いちいち問題にする態度」これは絶対にさけなければならないし、このような態度があるかぎり本来の教育はなりたたないのだといいます。ではそれに代わるものとして何があるのかと言うと、3つの問題が教師にとって重要で、第一に「生き生きとした創造的ファンタジーをもつこと」、第二に「未知なる真理への愛と勇気を持つこと」、第三に「真実なものへの責任感を持つこと」この3点が教師にとって最も重要な態度だというのです。
 シュタイナーが教師に求める一番基本的要求は、話をする相手にたいして自分の内部で創造的に生みだされる思想内容を常に新しく語ることであり、そのときはじめて教師の思想が生きた真実の言葉として相手に伝わるのだと言うことです。したがって教師はどんなときでもノートを見ながら話をしてはいけない。むしろ言葉につまってしまい、「ああ」とか「うう」とかいいながら立ち往生したほうが、そこに真実の思想の体験が生じるのだという。そのようなときに聴き手の誰かが「そこはこういう表現をしたらいいのではないか」と思ったりすると、それは協同の思想的作業をやっていることになる。たえず子供たちと一渚に考えながら新しい思想を創りだすことができるかどうかが優れた教師であるかないかの決定的分かれ道なのであり、それができなければ教師をやめなさいとまで言っています。
 私が、小学枚の5年生のとき、同じ敷地内にある幼稚園に逆び時間にまぎれこんで探検遊びをしていたら、秘密の部屋を発見してものすごいショックを受けてしまったことがありました。それは教室のとなりの準備室のようなところで中から見ていると教室の様子が手に取るようにわかる構造になっているのである。それは教室の黒板の横に大きな鏡が取付けてあり、準備室からは素透視のガラスになっていて子供たちの様子が一目瞭然となるそういう仕掛けになっている。それを知ったときのショックはいまだに忘れられない。教育の場には禁じ手というものがあるのではないか。子供たちの真実を知りたいと思っても知ればいいというものではない。子供たちの魂を傷つける様なことをしてはいけないのである。たしかに子供も嘘をつくし、悪いこともするけれども管理体制を強化したら嘘をつかなくなるわけではないし、悪いことをしなくなるわけではないのです。個々の人間がかけがえのない貴重な存在であることを実感できるような新しい教育の可能性をひらくことができるかどうか、あらゆる場で「賢治の学校」の実践が問われています。
(橘泰憲)


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