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落ちてきたら

今度はもっと高く

もっともっと高く

何度でも打ち上げよう

美しい

ねがいごとのように

黒田三郎『紙風船』
 中学のときの国語の先生に教えてもらったこの詩が、とても好きだ。いつも心にあるというわけではなく、どうしようもなく落ち込んでいるときや不安なとき、新しいはじまりに自分を励ましたいときなんかにふっと恩い出して、メモしてあるノートを開いたりする。今もそうである。そしてこの一年半の間にも、何回か。


大きなひまわりの下で

 1年半前の夏のタ暮れ、もうすぐ7時になろうかという時刻、私は橘先生の畑へきていた。筑波大学の農林技術センターの一画にあるその畑には、いきおいのよい野菜たちに混じって、とても大きなひまわりが3、4本たっていた。気分転換のジョギングの途中でひょっこり寄ってみたのだ。
 そのころ私はあせっていた。あと半年で修士論文を上げなければならないというのに、データをコンビューターにひたすら入力しつつも、それをいじって、いったい何の意味があるのかわからなかったし、東京へ通っての就職活動でぐったりしていたが、本当に自分がその企業で働きたいと思っているのかといえば、そうではなかった。ただ、あたかも動く歩道に乗っているように立ち止まることができず、さきへさきへと流されていくばかりで、白分のぺ一スで歩くことができなかったのだろう。
 そんな私を、大きなひまわりはなぐさめてくれた。ひまわりの下に立って静かに息をしていると、時の流れはとてもゆっくりであり、息急き切って走っている自分がアホらしくなってくる。『あんたはあんたのままでいいんだよ』といってくれてたのかどうかは分からないが、やさしくなぐさめられたようで、涙がでた。
 それからも走ってはゼエゼエ、走ってはゼエゼエをくりかえしていたが、秋にはそれも続かなくなり、とうとうリタイアすることとなった。そのときなんと私は「どうしても今の研究は続けられないから、もう一年延ばしてもいい?」と、拉きながら実家に電話してしまったのである。まさか自分がそんな行動にでるとは思わなかった。意外だった。まるっきり、子どもなのである。

 1996年1月20日、雪。乾燥気味の冬場、「今度湿り気があったときがチャンスですよ」と橘先生にいわれていたので、翌日さっそく農林技術センターの畑へ種蒔きにいく。よく晴れた午後、一面白い圃場のなかで、先生の畑だけ地面が見えていたが、そのなかでも、私がお借りすることになった一区画が、一番地面がでている。「地温が高いのかな?」なんて気をよくしながら、即席のビニールハウスをつくって、かぶ、小松菜、春菊、チンゲンサイ、ほうれんそうを蒔いた。これらの野菜は、私の大切な食糧となった。


出会いの中で生まれるもの

ring-r.GIF さて、方向転換をしてから、新たな研究にとりかかるまで、これまたたくさんの時間を必要とした。決まったことをこなすことしかしてこなかった私には”研究する”とはどういうことか分からなかったし、白分のしようとしていることが研究として認められるのかどうかも分からなかった。そんな葛藤の中で、前回も今回も「研究はこうでなくちゃいけない」と思い込むあまり、身勤きがとれなくなっている自分に気がついた。かたちに囚われ過ぎているわけだ。このままでは、前回同様いきづまってしまうと思った私は、論文として認められようとられまいと、自分のしたいことをすることに決めた。そうすると、論文を書いて修了するということが、自分にはなんでこんなに大変なのだろうかということから出発して、自分のおいたち、母親との関係にベクトルが向かっていった。そして最終的に『子育てをする母親の不安とその解消に関する研究』という論文(???)ができあがった。
 この作業のなかで、たくさんのお母さんがたに出会った。目上の、とくに女性が苦手な私には、勇気のいる日々ではあったが。この点、私はとても子どもなのである。ある母親は、子どもをどんな時にもまるごと愛してあげなければいけないと思っているのに、そうできないことに苦しんでいた。その母親の誕生日に、小学生の息子は「お母さん、ぼくはいじめられているようです。でも心配しないでください」と手紙に書いてきたそうだ。しかし彼女は、息子がいじめにあっている、そのことに触れて、息子と話をすることができないという。息子をどのように受けとめていいのかわからないという。お母さんも決して完璧な人間ではないのかもしれない。
 子どもを公園で遊ばせるときの、母親同志の建て前の人間関係がいやだという声が聞かれた。本音でものをいいあえる関係が心地好いと感じている人も少なくなかった。それなのに今の社会はそうではない。ある母親の言葉を借りれば「社会は人間を人間として扱えなくなった。人と人がそのつながりの必要性を認めていない。」のである。なんだかんだいっても人間関係は面倒臭い。人間関係を代行するサービスがあるかぎり、お金を払ってそれらを得ようとする行為は、ある意味では自然なのかもしれない。
 一つの関係で傷ついてしまった心を癒すためにも、お金で買えるサービスより人間関係をあえて選んでいくためにも、いろいろな人との小さな触れ合いの経験が、たくさん必要なのではないだろうか。子どもにも大人にも。そういうチャンスが少なくなってはきているが。


 論文をまとめる作業のなかでこんなことを考えてきた私であるが、実際の私はとても臆病で、人と出介うたんびに、どこかへ逃げ出ししたくなったりする。けれどやっぱり経験を重ねて、変わっていきたいと思う。そう思いつつ、詩のノートを開いたりする、春めいた今!!このごろ……チャンチャン!
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