//自信//
force
僕が『自信がないよ……』と言う時の真意は、実は大抵は相手に向けられている。僕は、自分の判断に自信がないという事に誇りさえ抱いている場合があるのだ(詭弁チックだが)。ある種の問題は判断が出来ない、統一した見解を持つべきではないということに対する理解がある、という意地悪かつ傲慢そのものの見解がその理由。環境問題にしろ食品安全性にしろ何にしろ、特に社会的判断を強要する事は金輪際出来ないまま僕は行くだろう。ごくごく私的な事柄や楽しみの事柄を除いて、寧ろ「正しい意見」が判っていることのほうが圧倒的に少ないのだし、そうした方が世界の細分化と画一化に対抗する「ささやかだけど、有効な戦略」になるだろうから。僕は世界がもっと複雑で、多様で、暖かい闇を持ち、全然纏まりが無く、意味不明なまでに意味に溢れている方が好きだ。
自信を持ってある意見を強要し、あわよくば『啓蒙』し、「知る」だけで世界は良くなるものと思い込む人々が結構いる。動作を見ていると、彼らはそう動くことに『本能的に』長けており、その判断は実際には複数の可能な選択肢の内の一つに過ぎないとか、その判断で泣くものがいるとか、そうしたことを実に巧みに意識の中に入れずに済んで暮らせるようだ。カリスマとはこの状態を指すのか、と思いつつ自分には出来ないと思った。僕は大胆でいるよりは多感を選ぶから。そのために非力になったとしても。
しかし少数ながら、自信とはつまり世界から自分の為に何かを奪う暴力であるという事、活動には自分の信じる(しかも正しいかどうか誰からも保証され得ない)世界に改造するための取り返しのつかない破壊を伴う事を知りつつ、それでも敢えてヤル奴もいる。幾つかの問題は確かに急を要し、世界の多様性を犠牲にしてでも解決を迫られているからだが、カリスマ系の人々と絶対的に違っているのは「多様性奪取」という種類の自分の罪を自分では赦そうとしない程に罪に敏感である事。
彼ら彼女らがいるからこそ、理想郷も考え得るという気になる、人間が偉大だと思わせてくれる連中。少なくとも悪い気はしない。