//相対と生活//

earth cross

Although world is so beautiful like this...  全てのお約束をとっぱらった先には、この世界に救いなど存在しないというのが現在の持論である。誰だかが(Gさん)証明した論理の限界のせいで真実への扉は閉ざされたままで、相対主義こそが世界の真実であるにも拘らず、住まう事の出来る生命の上限は決まっている=力や材の配分は不均等だからだ。つまり誰かが、本質的には正当でない理由で殺され続けねばならない世界だから、救いがないという論理である。必死になって「絶対」を呼んでやろうと頑張る人々もいるが、精々頑張ることである。

 これが絶対とされる基準の明白な社会なら、殺される順番はその基準が明らかにするところになるだろう。かつてはこの役割は、文明やら進歩やら天皇やらキリスト教やら家父長制やらに与えられていた。それらの論理は確かに現代から見ると極めて曖昧でお粗末だが、これらの存在が人々に「仮に」善悪を与え、少なくとも生きやすくしていた筈だ。

 本当にひとりひとりが幸せになるためには、たぶん相対主義社会を安定して保てる技術が必要なのだ。もはや血みどろの合意や裁定や競争を一切必要とせず、個人がそれだけで完結できる程の生産力を完備し、個人同士が互いの絶対領域を守りつつゆるやかに接続された社会。しかし世界人口は、こんな桃源郷の出現を今後も当分許そうとはしないだろう(サイバースペースの中では、今でも僕らはこんな生活を送ることができる「錯覚」を与えられる。僕がネットに墜ちていった奥の原因はコレ)。それを行うには、生産力が貧弱すぎるから。

 基準が無いままで生き続けよというのが宮台真司だが、それは豊かな世界の戯れごとに過ぎない――そういう規制がない場合、最悪には他者の無制限殺戮も可能だからだ。いっその事、旧世紀のような「異常にはっきりした世界観」を基に世界を再編成し、それを軸として殺しあいをしたほうがまだ耐えられる……という人が、現代の新興宗教を求める人々のコア層であるような気がするのは、あながち間違ってはいないのではないか。

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