ヒトを理解し、背景や過去や背負って立つ荷物や本当に欲しいものを洞察し、それを職業にする一連の人々がいる。彼らは正規のカウンセラーであることもあれば、呪術師や風俗関係者のような類の現場で現実と闘っている場合もある。またはそんなのに一切関係なく、「今」「この場で」何気なく日常を送りつつ単純に人々の洞察と内的なリーダーを務める非職業者もままある。
人々はそういう種類のヒトを見つけては、本来は自分の精神ですべきだった様々な判断を代替する。被相談者は、過去にどんなに相談を拒否しようとも、何故か相談を受けつづけてしまってきた歴史を背負って、何故か知らない間に(余程の覚悟で、相談者を降りている場合を除いて)相談を受け付け続ける。実はそれは、他者の感情のゴミ溜めを掃除する役割であり、相談にのった後に非常に疲れてしまうものなのだが。
そこで理解され内的な指導を受けた人は誰しも思ってしまう。この指導者が、自分が独占できる存在ならば良いのに……と。特に指導者側が巧妙で、立場をあまり感じさせないタイプの指導を行なったり、自分の素顔を出さずに相手に完璧に合わせた自我を用意していた場合は、こういう展開になってしまうのは致し方ないというような気もしないではないが、そうした経緯を辿りいずれは「依存」と「争奪」が発生せざるを得ない。そうした要求を持つ人間は、別にその「依存者」一人などではないからだ。理解する者は、複数の人間に対して理解力を無目的に放逸してしまっているのは明白なのだから。
この時、職業的理解者達なら「依存」に対する対処にも熟達している必要があるんだけど、別にやりたくて指導していた訳じゃない「ただ理解力がある人」の場合は一体どうなるんだろう。様々な「依存」する人々を目の前にただただ翻弄されつづけるのか? それとも「依存」する人々のうちの一人に、強引に独占(策略等に嵌められたり、行動を全て追尾されたり、殺されたり)されてしまうのだろうか? そもそも「指導」は、全て何気ないコトバの端々に出てしまう種類のものなので、その個人には止めようがないのだ。
「理解力」「洞察力」は、こんな理由で諸刃の剣であるというより言い様がない。これでは対人関係システムを全て破棄し、完全に表層だけで相手をする訓練を積むしか手はなくなってしまう。
この理解力の弊害に苦しむ人々を何人か見た。明かすと、僕もその一人だと嫌々自認せざる得ない状況が続いているが、当然コレは僕だけの問題ではない。僕などより遥かに高次元でそういう理解をしてしまえるある人は、日々勝手に圧し掛かってくる凄い鬱と闘うだけで一日の殆んどを費やしてしまっているし、また別のひとりは、それが遠因で壮烈な心身症となり発症・入院してしまった。
我々の生存権は、自然に蹂躙されるよう出来ているのだろうか。
そうではないのだとしたら、我々の為の場所はどこにあるのだろうか。
カウンセラーをカウンセリングすることを専門にする人間が出てきたように、理解者を理解する者だけがその場所を造れるのだろうか。でもその「理解者を理解する者」自体はその場合救われるのか? 互いに理解しあえるなどという「丁度手頃なレベル」では、恐らくは理解は通徹することはないだろうので。jesusは実はそれで死んだのか?<100%ピュア電波
それとも何かゼンゼン別の種類の「約束の地」?(……ぷっ)