//宗教心理//
tzar or jesus?
周囲を見ていて思うのは、実際には有効な自我を持てる者は限られているということ。自分自身も含めて『どこかで聞いたような言説』ばかり幅をきかせている。こうなると、ある話題は話す本人の意見なのか、それとも話題自身が自己展開しているのか、だんだん判らなくなってさえくる。
加えてこの人口を抱えた地球上では、繰り返すようで恐縮だが(僕にとって、このことは最も精神に痛い悪夢なので)運よく自我を形成出来たとしても、自我を維持することの許される者は更に限られている。誰もが実際には自分の欲望を果たすことが出来ず、肉体のためだけにその空しい一生を終える。まるで世界は、自我を消滅させる為に誂えられているように、今日も不可視の殺戮と殲滅とが始まる。誰かの夢が蹂躙され、誰かの望みが破綻し、そして誰かが死んでいく。
こんな光景ばかり見せられ続けると、いっそ残酷な天使でも悪魔でも何か異常に力ある存在に(但し、薄汚いまでに人間的な意志に限り)徹底的に蹂躙されたくなる。そいつの役割はこうだ――何人死のうが何壊そうが大切なものも自分も何もかもあらゆるもの全て犠牲にしてでも進むべき方向を、意思を、目の前に叩き付けて人々に指し示すこと――。その方が、誰もが意思を持つことが許されない世界よりは、悪政と圧制の恐怖はあっても誰かは『意志』を持てる世界の方が、どんなにか真っ当な世界だからだ。
こうして、その役割を演じ切った奴がカリスマになってゆく。宗教の本当の生成源は、きっとこの場所にある。