//科学の先と人口//
science, the environment
我々は普通、科学法則以外の論理が自然界に働くとは最早考えない。其れゆえ我々は、本来自由に発想出来るはずの心をかなり限定して使用するようになった。そのうち、その心までもが法則に置き換えられてゆく……個性、固有性、生き方、価値観念、曾ては主体性の枠内に管理責任があった全てはみな客観的絶対的実証的科学手法のなかに埋没しかけている。我々は恐らくこの道で限界まで行ってしまうだろう。
これが悲劇であることを理解していない場合、こんな話をする−−科学の言うような決定論的動作システムを本当に脳が持つのなら(物理屋さんはともかく、こうした思想の科学者が生物学系には多いという印象がある。平気で素朴実在論を信奉し、啓蒙思想が未だ有用であると信じぬくスバラシイ人々が凄く多い)、自由意思というものは錯覚としてしか存在しない。では何故、我々は何故意思を持つと教えられてしまったのか。何故我々は、少なくとも表向きは平等を認められるのか。何故我々は、一人々々として尊重されるのか。そしてこれらを皆欺瞞だとして否定した場合、科学者はナチス優生学よりましな世界を描けるのだろうか?『必要とされているのは決定論的に稼働する大脳神経叢であり、有機物以上の価値などは認められもしない』時代は正しいか。
意識まで扱うようになった科学はもはや人間の味方でも何でもなく、敵でさえあり、より正確にはある種の「環境」でしかない。能力と根拠を付与する替わり、極く少数の人を除いた殆どの人々にとって主体的に生きることを否定するからだ。発展と共に、選択肢もじわじわと削られていくことだろう。人間の代替作業を行う何物かもいずれ完璧に出来上がる――そのうちかなりの処までは既に出来ているから。もう既に、人間だけに可能で機械は代替できないという能力領域は『創造力』と『感受性』しか無い筈だ。これだって、いつまで保つのか判らない。
行動の根拠を社会が常に求めざるを得ないのが、科学がこうなってゆく理由なのだろう。結局この世界は有限で、通すべき意志も限られてしまう以上は誰かが犠牲にならざるを得ないが、その選別を少なくとも理想的に行おうとする為に大義名分が必要となるからだ。昔はキリスト教が、今は科学がこの役目を持たされているだけに過ぎない。人口制限なしで科学の恩恵に与かり過ぎたのが往年と違うだけ――そしてその結果が、今までにない程の強烈な思考制限だったというわけだ。ポストモダニスト達はそうした思考を破壊しようとしているが、社会が存在する以上は常に根拠を(でっちあげてでも)必要とするだろう。――前に、サイバースペース内では安定した相対主義社会を現実に体験できると書いたが、カラクリは電子資源の事実上の無尽蔵な生産も、その永久消費も可能だということ、言い換えれば現実の社会にはある『有限性』が、「今は」ほとんど感じられないことにある。
ここでもやっぱり「人口」が幸福の邪魔をしている姿が明らかとなっている。そんなにしてまで生産力を保たないと動かない社会は『生産する為の生産物』が過大なシステムと同じで意味がない……高い生産力と低い利用率、そんな社会が創り上げられれば、人々の最良の世界になるのに。利他主義を本気で掲げるつもりなら、自殺した場合に生まれる社会的利益と、自分が存在し活動することで生み出される社会的利益とを、常に比較する必要があるだろう。まだ、歴史は終わっていない。