//自殺と淘汰と可能性と//
limited,unlimited or nothing
どんな人にとっても人生は不快らしい。不快ではない人生は精神医学的に『異常(euphoria=多幸症)』とされている。この他に、無欲な状態も『脳神経の活動が低下した状態』だそうだし(人が生死の境にいる時、「無欲」を確認すると「死が近い」と判断するそうである)、肯定的なアイデアがとめどもなく生まれ精力的な仕事が可能な状態も『躁病』と片付けられる。尤も、平均的な大人の感受性よりも鋭い神経をもっていたり、文化の枠をはみ出すような激しい思考をもっていたりすればそれだけで『異常』と見做されるし、では『正常な人間とは何か』と問われればアメリカWASP式の人間像を描くような、腐った(もとい、難解な)体系の戯れ言に過ぎないのだが。
でもその体系から得られる知見もある。人生が不快なのは、快楽が常に脳に予め組み込まれた『シンボル』である為だ。シンボルは難解なのでそのままでは現実世界に現れない幻影である以上、永久に手に入らない。ジーン(遺伝子≒脳)はそうしてミーム(本人≒意識)を幻影で支配し、ミームに恋とか物欲とか権勢とかを追わせる。この間、ミームは本当には幸せにはなれないだろう。
これが妥当な仮説なら、『快楽は幻影である』をはっきりと認識し続け、これをストイックに拒否し続ける(若しくは、割り切ったうえで遊ぶ)がミームに可能な唯一の裏切りなのだが、その裏切りの代償は生命力の枯渇、或いはその個体の淘汰。ほんとに極めて関数的な俺達。自我って体の副産物なのか?ニーチェさんの言い分だったそうだが、それを信じるのはキツい。
しかし。生存しか頭に無い奴らが生き延びていくのなら、生存に際して些か過剰な精神を持つ俺らも意地でも生き延びてやる。後の生命の為に!(俺らって誰だよ……)