哲学は既に神学の婢ではないが、同時に科学の婢でもない。それは基礎理論の構築に有効なものとして扱われてはいるが、現在の哲学はどの種のものであれ『厳密科学』に対して懐疑的である。ウィトゲンシュタインが形而上学を“語れないもの”として括り出した時、その“語れないもの”の方に正しさがある可能性は残り続けていた。その時に、今日的状況はもう片鱗を表していたはずである。
ここでは、今までの哲学/科学哲学に属する科学の流れをもう一度総括してみたい。Aとしてウィーン学団と実証主義の冒険を、続くBとして実証主義以降を、最後にCとして現在の科学と哲学の関係を、それぞれ纏めてみた。……私見を先に述べると、とても脆い地盤の上に組まれた、物凄まじく厳密さを装った体系こそが科学だとしか言い様がない現実をコレで覚えた。学問を志す人間が、どこか連綿と修道士たちの面影を遺す理由もこれで掴めたように思う。
A;ウィーン学団と実証主義の冒険
ウィーン学団の狙いは“形而上学批判”であった。科学は全て観察可能な命題から成らなければならない、そして数学と論理学はトートロジーである、との出発点を掲げ(それを『強い実証主義』と呼ぶ)、統一科学を目標にした。この背景には、形而上学(と考えられた)をフルに活用して強力な政権を持ち、それにより排他的な行動→戦争を引き起こしていた当時のナチス・ドイツへの対抗理論が希求されていた、ということがあった。反形而上学は、反科学を代弁していたニーチェ/ヒトラーへの批判となるものとしてスタートしたといっても過言ではないはずである。
が、出発点の両方は後に破綻が明らかとなっている。或る種の物理学では、既にシミュレーションに頼った実験により理論を改善してゆくことでしか進化しないものとなっており、それは現代になればなるほど拡大しているので、“観察可能命題”による規定は不可能である。また“数学と論理学はトートロジーである”との見解をホワイトヘッド=ラッセルは否定証明するに至っている。
この結果残るものは“弱い実証主義”=科学的命題は何処かで経験と突き合わせることができる、というものになっていく。が、まさに宗教的経験を排除できない、という理由で形而上学の批判解体に十分な力をもち得ない事になってしまっている。
さらに時が過ぎると、ポパーから“仮説は永遠に説となり得ない”という、反証主義と呼ばれた実証主義批判がなされた。単称の観察言明の集合から全称言明への飛躍は『自然が斉一的である』との偏見=信仰からなるものに過ぎない、との批判である。クルト・ゲーデルも実証主義の正確さ、真実味を批判し(不完全性定理1、2故に)、プットナムが機能主義を、そしてオシアンダーが複数理論の同時並立性を立てることにより更に実証主義を、批判した。
B;実証主義以降
実証主義が力を失った後に残ったのはさしあたっては検証主義、確証主義、反証主義、である。(パラダイム論、ハードコア理論はもっと後になる)
検証主義とは『或る命題は、真か偽か観察による検証上の違いを生じる場合のみ、安定的に意味がある』というものである。「月の裏側に3000mの山がある」が授業中に挙げられた例だったが、これが最も端的に表している。(月飛行船が存在前は意味がなく、現在では意味を持った、といえる)
確証主義はカルナップのポパーに対する解答であり、単称の観察言明の集合から全称言明への飛躍は『自然が斉一的である』との偏見=信仰からなるものに過ぎない、との批判を回避するのに数学的な方法で出来るとしたものである(近似的な確証はできるというもの)。が、正確には何の解答にもなっていない―というのは、この場合数式は彼の思想を代弁させているに過ぎないためである(1;事実上は全称言明に近づいていると思っていること、2;パラダイム論でいう“覆される"ような状態を示すことが出来ていない為)。
反証主義はポパー自身の解答になる。『Pが真ではないならば、Tも真ではない』という種類の、定義に対する反論/反駁を中心とした立場であり、推理は自由としたのちで[反駁→推理→反駁→推理→]の連続のみがある、としている。パラダイム論に近いと言えそうであるが、仮説の受容と、単称言明の反駁の不可能性といった問題を抱えている。
補足;カルナップの確証主義の数式
Ca=S/(n+1)
0≦Ca≦1 (但し、Ca=1の時 S=n 且つ n=∞)
但し、Ca=次回起こる最低確率
n=P事象の観察回数
S=Q事象の観察回数
C;そして現在の科学と哲学の関係
現在に最も近いのが、パラダイム論を掲げるトマス・クーンの科学革命論、そしてラカトシュのMSRP(Methodology of Scientific Research Programme,科学的研究プログラムの方法論)であろう。両者ともに共通するのは“科学は普遍・絶対的な最終真理を生み出し得ない"“相対主義の混乱は我慢がならない”という危うげに両立する態度である。実はこれは、現状の思想潮流にも適合しているものである―客観の実在、『理論』の実在、自意識の実在、主体の実在等々は、現在は無根拠であるものであるとの見方が一般的であり、そのために精神分裂的世界像が言われたりしている。更に一歩進んで、知識の根拠を一切問わない方法(この場合は知と“戯れる"との表現が為される)こそが善しとされたり、却って無根拠を土台に或る一連の信条を真理と見なしそれに従う一派がいたり、もしている有り様である―。
パラダイム論の方が若干古い。パラダイムとは或る集団が有する世界観のことであり、それに付随して方法、一般理論がある。通常科学はそれに則り、その法則の下でその理論に合わせて世界を翻訳する。例えばニュートン力学主導の時代には地動説に基づいて世界が言われ、アインシュタイン主導の時代にはビッグバン宇宙が真理とされるように。それの中では、世界の歪曲も往々にして起こっている。例えば、小さなレヴェルでは実験データの解釈のときのように(実験誤差か?実は理論が違うのか?のディレンマに直面すると、大抵は実験誤差の方で纏められる)、大きなものではクエーサーの距離について新理論を提唱したものを学会が排斥したり(パナマ天文台所長)、といったように。
そのデータの混乱が一定以上になったときに、初めて新種のパラダイムが出来、旧パラダイムを駆逐して(支持者の数に拠って決まる)以後の世界を解釈する。最も最近の例では、環境問題絡みで世界の無限の汚染受容性という概念が覆っている。
この理論にも穴があり、それが“世界観”とされたパラダイムの説明の甘さである。また。通常科学との境もはっきりしたものであるとは言えない。又、“主流"の説明は出来ても、科学の異端的少数集団に対する説明が困難になる、というものである。尤も、これはトマス・クーンが社会学者であることを考えれば自然かもしれない(事実、この後で従来の科学哲学とは別の流れとして、科学社会学を提唱、その流れは世界中に広まり、日本でも村上陽一郎、吉岡斉などを中心に研究がなされている)。
これを補完/補強する形でラカトシュがMSRPを提出しているが、基本はポパーの流れを汲むもので、“洗練された反証主義"を基に科学を『堅固な核(Hard−Core)』という反証が意味を為さない領域、具体的には思想と理論にかかわる領域と、『保護帯(Protective belt)』という補助仮説や初期条件からなる観察/成長/反証の可能な領域に分け、理解するというものである。この場合、パラダイム革命とは『ハードコア部分』の変遷として捉えられることになる。知識は成長する、との立場が大きな違いとも言えよう。