//マインド・コントロール//
common sense
今になってこれを書く気になったのは某・有名ロックシンガーグループの洗脳疑惑が取り沙汰されているからだが、意見そのものはオウムの昔から変わっていない。
マインドコントロールが洗脳とは違って薬物や拷問を用いないものである、ゆえに催眠と同じで本人の意識が拒む事は拒まれ続ける、という定義など僕にとってはどうでも良いことで、両者とも誰かに都合のいい精神を作り上げる点で同一である。この点から見ると、教育活動はマインドコントロールに当たること、これゆえに社会といえども公にマインドコントロールを攻撃出来ないこと、などが明らかになる。
本来なら、どちらのマインドコントロールも攻撃すべきなのだ。どの集団に対しても、僕らは自分の精神を任せ切る必要などない。現代ではそれらは皆、僕らの自由な精神を喰い散らかす為にしか存在出来ないから。そうしないとこの膨大な人口を管理し切れないからだが、そんなの僕らの生には本来関係ない筈だ――多人口時代の生が薄っぺらでなければならないなどど、誰が言えようか――。
それにもかかわらず大抵僕らは、社会からのマインドコントロール――生産性の常なる拡大を目指した行動こそが善――を受け入れ、自分の自由と引き換えにその日のささやかな安楽を入手する(僕だって例外ではない)。そうすることが社会にとって最も生産的だからだ。現在の社会が経済主導で動いているのも、他に何かのイデオロギーを掲げられないからとか理性の限界が来たからとか対話不能状態だからとか、難しい理屈を並べなくともすべてコレで説明出来る。それゆえに僕らは、誰かのセリフにあったように『狂いかけ、癒され、狂いかけ、癒され』の一生を送り、死んでゆくことさえ許容する。でも、社会のルールがその個人を破壊するほどの嫌悪感を伴うものであったとしたら? その個人にとって、本当に狂う寸前で生きることを強要されるのだとしたら? その個人は、死ななければならないのだろうか?
別の集団のマインドコントロールを受け入れても良いのではないか。狂うことでしか生きられないなら、狂う対象を自分で選ぶ権利があるのではないか。いや、先に挙げた洗脳との定義の違いから考えて、マインドコントロールを受け入れる人は『その思想を受け入れ、狂うことを望んでいる』からこそアンダー・コントロールに置かれるのではないか。だったら、そういう人を現実世界に無理に引きずり戻しても不幸なことにしかならない筈だ。彼らが二言目には口にする『そっとしておいてくれ』の裏には、絶対にこういうカラクリが蠢いている筈なのだ。マインドコントロールを正当化する為に詭弁も強弁も何でも使うのは、正しくはこのカラクリを破壊されたくないからだ。
実はもう一ついえば、それでも尚マスコミ=メインストリームの意識が、彼らを社会に引き戻そうとするかもコレで解ける。彼らにしっかりと役割を果たし、しっかり死んで貰いたいからだ。(そうでなければ、メインストリームでさえも自身の不安定な要素が増すから。メインストリームが既に安定した存在だと思うのは早計だ)
別種のマインドコントロール体系同士が次第に敵対関係を持つようになるのは、こう見れば理解出来る。新宗教が互いに相互侵犯的に馴れ合うのも、同じメインストリームに対抗するマインドコントロール集団同士であるからとすれば把握も容易になる。
メインストリームに出来ることは彼らの排斥ではなく(それをしたところで、同じような集団を結成されるだけだろう)彼らの受容だろう。イデオロギーが世界から失われたのは、この意味で都合がいいと考えるものである。本当にすべきなのは実は、彼らを創らないような、全てのマインドコントロールが存在しないような社会を求めることだろうが、当分は無理な注文だろうし……。